小名浜/団地を回り/訪問

火曜日朝は小名浜での定時定点。きのうは、おとといからの大雨警報が解除されず、朝からの雨で実施しませんでした。

平北部地域の党支部のみなさんと、おもに団地を回り、4か所の街頭から訴えました。その間、支部のみなさんは、1軒1軒をたずねて、放射線測量や「原発いらない」署名で歩きました。

公園の草むしりをされていたかたや、話をし始めてから外に出てきてくれたかたがたと対話。「いま演説していた人だね。がんばってよ」、「代替エネルギーが確実でないと心配な面があるのは確かだが、原発はいらない」などなどと。

夕刻からは、私が住む地元の党支部のかたと、医療生協でお世話になっているかたがたを訪問。放射線簡易測定器を持ち、原発問題でお話をうかがいながらで、ほんとうにみなさん、おっしゃりたいことがやまほど。

アクアマリン

震災後、再オープンしてひと月以上経ってしまったアクアマリンふくしまへようやく足を運びました。

被災2週間後にたいへんな様子を見て以来です。

【今日の金魚水槽】

【4/2の金魚水槽】

【今日の建物入口】

【4/2の建物入口】

建物入口付近と金魚の水槽の被災後ときょうの様子を見ただけでも、ほんとうに安堵したというか、前向きになれました。

駐車場はまだ全面復旧には至っていませんし、駐車場への敷地内の道路部分は地盤沈下したままの様子。

駐車場入口には「がれき座」の舞台。津波ではがされ、流されたアスファルトなどのがれきを積んで舞台が作られています。その看板は、水族館内の「黒潮」と「親潮」をへだてる厚さ6cmのアクリル板の破片が使われています。

館内には、生き残った生き物たちが避難した先の全国の水族館や動物園の館長や園長がメッセージを寄せてくれていました。

とにかく感動!

 

大雨/いわき市の基準0.3の計算

いわき地方は朝から大雨警報発令です。大震災の影響を考慮し、通常基準よりは引き下げた暫定基準の運用ではあるそうです(気象庁)。

いわき市では先月下旬、「子どもたちの生活空間における当面の放射線量の目標水準」として、毎時0.3マイクロシーベルトを設定しました。空間線量がこれを超える小中学校、公立の幼稚園・保育所(私立は希望する場合)の校庭・園庭の表土を除去し、0.3以下にする事業が予算化されました。

議会でのやりとりでは、これを第一段階とし、次の段階としてすべての施設で表土除去を含めた線量低減の方法を検討・実施する、とのこと。

0.3の値は、「事故の影響による放射線量」を0.19、「自然由来の放射線量」を0.11として導き出されました。

まず「事故の影響」については、事故収束後の被ばく基準年間1㍉~20㍉の最小値1㍉(1000μ)を採用し、子どもが1日の生活のうち、屋内で8時間、屋内で16時間過ごすとしました。そして屋内での被ばくは屋外での被ばくの40%と設定します。

そうして1時間当たりの空間放射線量を計算すると、

1000=(X×8時間+X×40%×16時間)×365日

から、X=0.19μ㏜

次に「自然由来」については、事故発生前の平地区での毎時0.06μ㏜を基本に、この線量を365日、外にいたとして浴びる量を上限に設定しました。

0.06×24時間×365日=525.6≒530

ここから同じように1時間当たりの線量は、

530=(Y×8時間+Y×40%×16時間)×365日

から、Y≒0.11μ㏜

それで X+Y=毎時0.3μ㏜ としたようです。

本来、国が迅速にこうした基準を決めないと、自治体ごとにバラバラな値が出始めたら、混乱すると思います。

憲法街宣/数値が高めの下神谷・泉崎/原因者の責任

日本国憲法を守るいわき市共同センターの市内いっせい街頭宣伝がありました。

私は浜通り医療生協九条の会のメンバーとしていつものスーパー前。

そしたらきょうは、買い物に来た人がスーパーに入る前に最後まで聞いてくれたり、買い物を終えて出てきた人がずっと立ったまま最後まで聞いてくれたり。そして拍手。あるいはまた買い物袋を持って手を振っていってくれる人。駐車場から出る車から手を振ってくれる人。

南相馬市から「避難」できていて、共産党の渡部寛一市議にはお世話になっているんです、というかたも声をかけてくれました。

話しがいを感じた憲法街宣でした。

午後は平下神谷・泉崎地域を地元の党員とお知り合いをたずね、放射線量を測りながら対話。この地域は、玄関前が0.2μ㏜毎時をどこでも超え、庭では0.3~0.5、すぐ裏に林や茂みがある場所では0.4~0.8と、市街地住宅街から比べるとやや高めの数値。

いわき市としては、0.3以上の小中学校、保育所、幼稚園庭などの表土を除去する方針を示していますから、きめ細かな測定と、0.3を超える地域住民への対応をきめ細かくしなければなりません。そのためにかかる費用は、この原因者である東電と国に請求するほかにないのです。

住民の健康と暮らし最優先の姿勢をはっきりと行動で示してもらわなければなりません。こうした事態を招いた原因者の責任をはっきりとさせる姿勢が必要です。

 

 

新聞切り抜き・処分/政治家を選ぶ/また震度4

きょうは朝早くから、強い雨が降ったりやんだり。朝の定時定点は中止。

活動予定上も「オフ」日なので、朝から新聞の切抜きと処分の作業をしていました。

放射能汚染に対するこれからの対応は、ほんとうに深刻です。放射線量が比較的低いいわき市とはいえ、自分が住んでいる家の放射線量も知らされず、その影響が子どもや孫たちにどう出るのかもわからず、その対応を国家はほとんど何もせず、それどころか、次の首相を誰にするかの民主党内の自民党時代と何も変わらない姿。

きょう付けの「朝日」の記事に、民主党のいわき市選出の県議の名前。社会党双葉総支部が72年8月に「双葉地方原発反対同盟」を結成したさい、その事務局次長だったとか。いわき市義を経て、3年前の県議補選で民主党の風に乗って県議になりました。原発・プルサーマル推進を自認していたのです。そして原発事故後は、脱原発だとかエネルギー政策の転換を言い出しました。

民主主義的手続きと、その手続きにのっとった政治が民主政治なので、民主主義を実現することはほんとうに難しいのですが、自分が望む政治をどうするかを基準に政治家を選ぶ時代をつくりださないとならないと思います。

そうこうしていたら、午後2時36分ごろに、かなり長く揺れる地震。福島相馬沖の80kmほど東の地下20kmほどが震源とか。いわき市では震度4~3でした。長かったので、ちょっとドキッとしました。

ペロがすぐに私のひざに飛んできたのですが、この間の余震のたびに思っているのは、3月11日のあの日、1匹でいたペロはどうしていたんだろう、ということです。

大地動乱/首都圏を襲う明快な根拠

『大地動乱の時代』(石橋克彦著、岩波新書)を読みました。

この本は、1995年の阪神・淡路大震災の5か月ほど前に発行されました。

その時点で、「十~二十年のうちに、大地の運動の自然な成り行きとして、日本の心臓部を小田原、東海、首都圏直下の大地震が相次いで襲う可能性が高い」と指摘しています。

首都圏についての話でもあり、大げさだと批判もされたようですが、翌年には神戸で現実のものとなりました。

その後著者は、1997年に雑誌『科学』(岩波書店)10月号で、地震によって原発の大事故と大量の放射能放出が生じ、震災と放射能災害が複合・増幅しあう破局的災害を「原発震災」として提唱しました。

本書では大地動乱と原発事故に直接触れてはいませんが、ともかく、幕末に始まった大地震活動期が関東大震災をもって終わり、その後の地震活動静穏期に日本の首都圏は大地震に一度も試されないまま、野放図に肥大・複雑化して、本質的に地震に弱い体質になってしまったことを指摘します。

そして再び大地動乱の時代を首都圏が迎えることは確実である明快な根拠を、地震学者の良心が警告しているのです。

汗をふきながらの声援に感謝/訪問中の雷雲/ひまわり

午前中の日差しと暑さはきびしかったのですが、平市街地の5か所の街頭から訴えました。

スーパー近くの交差点では、車の運転席から「暑いけどがんばってよ」と声をかけてくれるかたがた、歩いて通りかかるかたがたからも汗をふきながら声援があり、ありがたいです。

商店街の歩道のベンチに腰かけて聞いてくれるかた、「核燃料は今どこにあるの? 原発は今どうなっているの? こんなことをしてるのは共産党だけだね」と声をかけてくれるかた、お店から出てきて聞いてくれる親子、車から手を振っていってくれるかた、ほんとうに励まされます。いっしょに、住み続けられるまちにするため、がんばりましょう!

午後は、簡易放射線測定器を持って訪問しながらごあいさつ。

「測定してもらったのは初めて。数値を聞いて安心しました」、「この数値がずっと続いたときにどんな影響が出るかがわからないことが問題だけど、こういう活動をしてくれるのは共産党だけ」などなどと、いろんなご意見。

途中、雷雲がモクモクと大きくなり始めたかと思うと、まもなくゴロゴロの音を伴いながら、雨も降り始めました。

けさ、わが家の庭では、直径15cmほどの小さなひまわりの花が咲きました。

 

 

放射線測量訪問/びっくり3連チャン

私が育った団地の党支部のみなさんと、地元のお宅の放射線測量をしながら訪問して歩きました。

「測ってもらったのは初めて、ずっと心配していた」、「庭でキュウリやニラを栽培している。食べられるのかずっと不安だった」、「ミョウガが出てきて、捨てるかどうか迷っていた」、「こんなふうに測りに来てもらって安心した」と、みなさんから大歓迎です。こちらがほんとうにびっくりするぐらい。

小学校で同級だった彼女とは、中学卒業以来。隣のやはり同級だった男性の実家には時どき寄っていたのですが、彼女がずっと実家にいるとは思いもしていなかったのでした。

中央台という地域の職場に勤めていて、私がその隣りの事業所にしばしば足を運んでいた姿を見ていた、とのことで、驚き桃の木でした。

チラシまきをしていたかたが、「うちも測ってほしい」と声をかけられた、とのことで、午後にうかがいました。

そしたら、「長谷部くんか。中学校のころ、教員で同じ学校にいたんだ。いつも投票してたんだ」と。直接習ったことはありませんが、またまたびっくり。

その後、けさの「しんぶん赤旗」日刊紙の記事で気になったお宅をたずねました。6月上旬に、医師の友人から相談にのってほしい、といわれてたずねた際に、そのかたから聞いた息子さんではないか、と察したのです。

間違いありませんでした。またまたまたびっくり。

栗/小名浜定時/メディアと構図/「かけはし」配布

そういえばきのうは、妻の実家の庭に栗の実。季節は間違いなく自然に動きます。社会は自然には動きません。

けさは、盆休み後の小名浜での定時定点での街頭から。

お盆中に気づかされたもろもろを語りました。ただし20分だけ。

きのうは終戦66周年記念日でした。この戦争も、反対し続けた共産党の声は封じられました、虐殺までされ。原発事故も、その危険を発し続けた声は「安全神話」の前に封じられました。自民か民主かの二大政党がつくられたのもまったく同じ構図。そのすべてにかかわったのが、国民の情報源であり、判断材料のはずのマスメディア。

現代のマスメディアに権力監視と真実を報じる姿勢を求めることは、ムダなのでしょうか?

家にもどってからは、通信「かけはし」8月号をご近所240軒ほどに配布。炎天下でもあり、ゆっくり歩きました。

ときどき、井戸端会議をするかたが、2階のベランダで洗濯物干し。「おはようございます」と声をかけると、ご近所中に聞こえるかのような対話。

「今度こそは仕事をしてもらうからね」「ぜひ仕事をさせてもらえるようにお願いします」。

ベテラン職員/二大政党・原発・大本営/久之浜

医療生協職員の新盆を迎えたお宅を訪問。私が小名浜生協病院で働く以前から働くベテラン職員ばかりです。

「2年前は、自民か、民主か、ということで、自民党はもういやなので、民主党に政治を変えることを期待して、多くの人が民主党に投票したことは間違いない。でもけっきょくこのとおり、まったく変わらない」と。

生協病院職員とはいえ、政治談議をじっくりする機会はなかなかありません。「マスコミが二大政党制をあおって、二つの政党以外に選択はないかのように刷り込んだことと、原発はぜったい安全で、原発の危険を考える選択はないかのように刷り込んだことと、戦争前の大本営発表が戦争反対の選択を考える選択はないかのように刷り込んだことを、しっかり見据えましょうよ」と私から。

国民主権や民主主義政治の中身をつくるのは、こういう議論以外にないと感じました。

新盆を迎えた一人に、久之浜町末続(すえつぎ)の家が津波で流された友人がいました。震災後も何度か顔をあわせ、家族は無事だったことは承知していましたが、新盆のことも、現地の様子も見る機会がなかったので、現地へ行きました。

海が目の前の末続川河口の間近です。津波の爪あとはそのままです。

帰りに久之浜町の街中にも寄りました。震災直後も歩きましたが、その後は通行止めだった地域。ここは地震・津波・火事・原発事故にいっぺんに襲われました。火事で焼けた車が集められた場所。まだまだ震災直後の生なましさが残されています。