若社長さん/集会報告/心に残る言葉

火曜日朝は小名浜の定時定点。小雨模様でしたが、決行です。

木曜日朝にいつもごあいさつする事業所の若社長さんが事業所トラックで通りかかり、手を振っていってくれました。別な場所で会うと、なにかまた違ううれしさです。

きのうの「さよなら原発」集会の報告も街頭からしました。

壇上でスピーチしたみなさんの言葉には、心に残る言葉がちりばめられていました。

「私たちは、原発にさよならをいいます。『また会う日まで』ではなく、『もうぜったいに会わない』が私たちのメッセージ」(鎌田慧さん)、「日本人は、これから原発の事故を恐れなければならない。私たちはそれに対抗するということを、想像力を持たない政党の幹部、経団連の実力者に思い知らせる必要がある」(大江健三郎さん)、「子どもが夜中に起きて、『放射能こないで』と泣き叫ぶような社会を続けさせてはならない」(落合恵子さん)、「さようなら原発、こんにちは命輝く国。その第一歩をみなさんとともに歩き続けたい」(内橋克人さん)、「命を産みはぐくむ女性たちが役割を果たすべきときは今…老若男女を問わぬ、人間のとりでを築いていきましょう」(澤地久枝さん)。

きょうはまちづくりの研究・実践にとりくんでいる研究者と話す機会がありました。「被害をいかに減らすかの努力をしなければならない。この福島を、原発からの撤退と自然エネルギーの発信地にしないとならない」。これまた、心に響きました。

さよなら原発/東電申し入れ/「原発がない社会を」

さよなら原発9・19集会に参加しました。

私は医療生協の一員として、小名浜地区労のみなさんといっしょでした。

集会前に、小名浜地区労傘下の全港湾小名浜支部が一員の全港湾、全日本建設運輸連帯労組、全国一般労組が東京電力に事故の収束、事故被害の全面補償などの申入れに同行しました。

明治公園での集会では、呼びかけ人の鎌田慧さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、内橋克人さん、澤地久枝さんが次つぎに心のこもった発言。ドイツからのフーベルト・ヴァイガーさん、俳優の山本太郎さん、福島県の武藤類子さんが引き続いて原発は人類の生存と共存しえないことを、それぞれの立場からお話しされました。

きょうの新聞報道によると、野田首相は、「脱原発依存」とは一線を画し、財界の言うがままに、原発再稼動優先です。あれこれの言葉はともかく、そういう政権です。

行き帰りのバスのなかで、当然に話題になりました。「脱原発」をめざす内部でのあれこれに意見の違いも出されましたが、こうしたガチャコチャを出し合って、いっしょにできることはいっしょにする、という行動を広げないかぎり、世の中は前に進みません。

国民の多くは原発事故でさんざんな思いを強いられています。「原発がない社会を子どもたちに」、そんな思いを強くしたきょうの集会でした。

いわき平和のつどい/原爆と原発/抑留体験証言

きのう、きょうと「第8回いわき平和のつどい」があり、きょう、行ってきました。

展示の特集が「原爆と原発」。戦争遺品に加え、原爆パネル、福島原発事故を特集した雑誌の数々、原発と放射能の解説、国があげて「原発の安全神話」を国民の心に刷り込んできた教材や宣伝物も展示されました。

1973(昭和48)年9月11日付の「自由新報」の拡大コピーパネルもあります。自民党の機関紙です。

「原発建設は世界の常識」「原子力発電は世界の大勢」「原発建設で双葉の未来を」「反対派の非現実性を訴える」の見出しがおどっています。

自民党という政党は、責任をとって解体すべきではないですか?

午後1時半からは「第3回証言 戦中、戦後の生活」で4人の戦争体験者が証言しました。うち2人はシベリア抑留体験を証言しました。妻の実家がある平高久(たかく)地域に住んでいる菅波四郎さんと鈴木春夫さん。お2人とも87歳で、私も2~3度たずねてお話をうかがっていました。

「酷寒のなかで亡くなった戦友の分まで生きなければならない」「戦争の動きはぜったいにやめさせなければならない」と、声を詰まらせ、涙をにじませた証言は、私たちがしっかりと受け止めなければなりません。

スーパー前街宣/漁港で/訪問

小名浜のスーパー前で街宣。

買い物をして歩いて帰るかた、車で駐車場から出てくるかた、駐車場から店内へ向かうかた、通りを通っていく車のかた、それぞれから手を振ってのご声援があり、力が入るというもんです。

小名浜漁港によると、自転車に乗ったかたが寄ってきてくれました。「漁業をしているが、共産党が政治の世界で少数にさせられ、存在を無視されるような境遇におかれている気がする。漁に出られないわれわれの暮らしをなんとかしてほしい。原発はとにかくいらない」と。

午後は、わが家がある住宅街とは、通称・鹿島(かしま)街道をはさんだ隣りの住宅地で、地元の後援会員とお知り合いをたずねました。

共産党への期待を熱く語ってくれたかたは、政治の世界で共産党を排除もしくは無視する精神構造は、原発の安全神話を信じ込まされた精神構造とそっくりだ、と指摘していました。

またあるかたは、だんなさんが働く自動車整備工場の隣りに洗車場があり、原発作業員を乗せて帰ってくるワゴン車がそこで洗車をしていて、放射線量が回りより高い、と話されていました。

原発事故は、ほんとうに、際限のない悩みや心配や苦しみを広げています。

国道6号線/訪問/出会い

金曜日朝は、平神谷の国道6号線沿いの定時定点。視線を合わせて手を振ってくれるかた、会釈されるかた、いつも運転席の窓から腕を出して手を振ってくれるかた、ありがとうございます。

きょうは、私が住む住宅街の隣りの広大な住宅街で、医療生協でお世話になっているかたがたを、地元の後援会員のみなさんと訪問しました。

あるお宅には、現在の小名浜生協病院の前身である浜通り診療所のころから医療生協とのお付き合いがあるかたが遊びに来ていました。

いっしょに歩いた後援会員がまた、浜通り診療所設立当初に看護師として働いていたので、当時のことから半年前の地震当日のことから、話がつきませんでした。

定期送迎バスで病院に通う一人暮らしのかたは、「震災後の国会の様子を見ていても、庶民の声が反映されているとはまったく思えない。共産党が無視されているようだ」と。

息子さんが原発関連で働いているというご両親は、「こんなことになるはずじゃなかったんだ。もっとも息子は、今回の事故前から、原発にかかわる報道や情報はほとんどいい加減、と言っていた。原発はなくしてほしい」と。

いろいろな出会いがあります。

 

被爆者と原発

『被爆者医療から見た原発事故』(郷地秀夫著、かもがわ出版)を読みました。

著者はこれまで30数年間、約2000人の被爆者の健康管理にかかわってきた医師です。

7年前に原爆症認定集団訴訟にかかわるまでは、目の前の被爆者に起こっている健康障害を原爆放射線によるものとはかんがえておらず、病気のほとんどの原因を原爆放射線とは関係ない、と言い続けていたんだそうです。

その当時のご自分が、原子力エネルギーの利用を推進する人びとの偏った知識のみを信じ、「放射線障害は軽微で、原子力は有用だ」という考えに、気づかないうちに洗脳されてしまっていた、というのです。

原発事故後、日本の国民が、真実を知らされない中、不安にさらされ、国に選ばれたその道の権威といわれる人びとに頼らざるを得ない状況は、かつての自分と同じだ、と。

本書は、報道される原発事故情報の何がどう足りないか、どう真実と違うのかを明らかにしたい思いと、多くの国民が「被爆国」という概念を、もう一度、明晰に認識しなおす機会を提供したい願いで書かれました。

かつての仲間の集まり/「震災と民具」―伝承郷

かつて、同じ建物の中でいっしょに働いた仲間の医療生協党支部の集まりがあり、「決意」を語りました。

3月11日の重税反対集会の最後の場面で大地震に襲われたこと、翌日から津波被災地の現場に入ったこと、小名浜地域の医療生協総代や組合員さんたちの安否確認訪問や今に至る多くのかたがたとの対話の様子も報告しました。

志位委員長の党創立89周年記念講演のダイジェストDVDも視聴しましたが、私は3度目。何度見てもなかなかなもんです。インターネットでも共産党のホームページから見ることができるので、ぜひご覧ください。

この集まりの前に、いわき市暮らしの伝承郷に寄り、震災後に寄贈された民具を中心とした「伝承郷収蔵品展」ー震災と民具ーを見ました。震災直後からの写真や、復興を願ってこの企画展に提供された平豊間区の獅子頭も展示されています。

10月23日まで(火曜日休園)。

小名浜定点前/組合員/「原発はさんざん」/放射線量測定

火曜日朝は小名浜での定時定点。

原発震災後の再開以来、裏道を通って現地へ行きます。私が浜通り医療生協で仕事をすることになったときから、ずっとお世話になっている組合員さんのお宅の前を通るためです。通るのは毎回7時45分ぐらいですが、庭に出ている彼女と毎回ごあいさつ。透析をしていて、震災直後は、県外の病院でお世話にならざるを得ず、たいへんな体験をされたのでした。

午前中は生協病院職員後援会員と病院の文字通り足元の地域の組合員を訪問しました。原発震災前にもたずねていた地域でもあったのですが、あるお宅に来ていたお客さんが「うちも医療生協組合員で、あんたのことはよく知っているよ。前にも来てもらったよ。原発はあんたが言うとおり、なくさなくちゃダメだ、とみんな言ってるよ」と。

別のお宅でも、来ていたお客さんと話がはずみ、共通の知り合いの共産党後援会員が話題になったりして、「ぜひ連絡を寄こすようにいってください」と。

午後は平北部後援会のみなさんと街宣とチラシまきと放射線測定。街宣は3か所で。ある場所では、その地域の元区長さんが出てきてくれて、「知り合いには漏れなく声をかけたい。原発にはさんざんだ」と。

夕刻は、私の地元の隣りの住宅街の後援会員がお知り合い宅を案内してくれました。あらかじめ、放射線量を測定するよ、と声をかけてくれていたのでした。

実家が警戒区域内にあって親族が全員散り散りバラバラにさせられているかたがいたりして、一軒一軒お話を聞いて歩くこと自体が、たいへん大切なことを毎日毎日思い知らされています。

町内のひとつの公園は一部が1μ㏜毎時を超えていて、「立入禁止」の表示。

朝2か所の定時定点/農村地域訪問/避難者駐車場問題

月曜日朝はいつものように2か所の定時定点の街頭から。宣伝カーの運転に来てくれる高橋あき子市議は、「11月20日投票の報道後は、手を振ってくれる人がふえてるし、雰囲気も違うね」と。私もそう感じてました。

2か所目では、乗用車の後部座席の窓を開けて手を振ってくれるかた。市農業委員会の役員をされているかたです。

午前中は、先週に続き、平神谷(かべや)地域の党支部のかたと、農村地域のお知り合い宅をたずね、「原発いらない」署名や放射線測定をして歩きました。

ある場所で宣伝カーを止めていたら、ご近所のかたが見えて、「この車を見て、なにか測ってくれてるのかなぁ、と思ったんですが」と。さっそくご自宅の入口、玄関前、庭の放射線測定。どこも0.2μ㏜毎時前後で、この数値をどうとらえるか、などの話もすると、「測ってもらって、話を聞かせてもらっただけでもなんだか安心です」と。

放射線は浴びないにこしたことはない、という話を基調にしていますが、安心してもらってホントに安心です。

午後は、宮川県議が相談を受けていた小名浜地域の雇用促進住宅へ。市内で津波被害を受けたり、原発地域からの避難者が入居しており、いまどき、一世帯で車一台では生活できませんから、駐車場の問題はどこでも深刻なのです。

県の合同庁舎へも行き、その実情と要望を伝えました。

そのあと、党地区委員会で相談を聞くためにお会いすることを約束していたかたのお話をうかがいました。

夕刻には県議選へ向けた党内の会議もあり、なかなかハードな日でした。

 

 

内郷で放射線測量/30数年ぶりの再会/生協ニュース

内郷地域のいっせい行動で、きょうは綴町(つづらまち)秋山に入りました。

宣伝カーで私が「簡易放射線測定器で放射線を測量しています。ご自宅の放射線量が気になるかたはお気軽に声をかけてください」とこの地域をふたまわり。3組のみなさんが測定器を持ち、「原発いらない」署名もお願いしながら、対話を重ねる行動でした。

そしたら、宣伝カーに寄ってくる人たち。「原発関連で以前に働いていた。暴露すれば問題になることはいくらでもある。情報隠しは原発ではあたりまえ。共産党が言ってくれていることがいちばん正しいんだ」と、20分ほど。政治に対する怒り爆発です。

またあるお宅では、家族総出。「庭のキウイがいっぱいなった。放射線量が気になってしょうがない」と。空間線量は0.2μ㏜前後で、汚染されていることは間違いないのですが、この数値の見方などであれこれ話しながら、「小さい子どもたちに食べさせることは避けるが、大人はそんなに神経質にならなくてもよさそうだ」と。

別の組のかたが、「こいつはオレの同級生だから、知ってるよ」という人がいた、と。

さっそく午後、たずねたら、中学時代、1年生の時に同級で、ブラバンで3年間いっしょだった仲間でした。中学卒業後、1度ぐらいはどこかで会ったようなのですが、ともかく30数年ぶり。まったくそんな気がしない、「やぁやぁ、ごぶさたしてたね」みたいな再会でした。

その後は自宅にもどり、医療生協ニュースをご近所の組合員に配布。まぁ、私が何者かは知られているので、「今度ばかりは頼みますよ。応援してるんだから」と。

私が腰に常備している放射線簡易測定器を見て、「うちで食べる作物を栽培している庭の放射線量を測ってみてよ」と。玄関先は0.19ぐらいでしたが、庭は0.23ぐらい。

汚染されていることは間違いないのですが、年間の自然放射線量と、平常時の「がまん」線量である年間1㍉㏜からみて、目安としては注意して暮らすことを心がける範囲で、「こうして測ってもらうと安心する」と。

こう言ってもらえて私も安心はしますが、安全審査を合格させてきた国の責任を果たす場面がまったくなく、その姿も見えず、民主党と自民党はもうダメだ、という声が歩けば歩くほど広がっているのです。

この声を現実政治と選挙で活かさなければなりません。

きょうは写真を撮るまもなく、きのうの記録です。