配湯会社/設備壊滅/「顧客以外は話せません」

【下神白筒地(しもかじろ・どうち)】

13日前にたずねて、20リットルのポリタンク2缶分の水をいただいてしまった高校恩師宅にポリタンクをお返ししたり、その近所の水道管業者をたずねたり、小名浜の包括介護支援センターに寄ったり、医療生協の総代さん宅をたずねました。

そのなかで私が初めて知ったのが、小名浜の1200戸ぐらいでは、小名浜配湯株式会社からお湯を直接「配湯」されていた、という事実。

もちろん、料金を払ってのことですが、1970年から一般家庭、旅館、ホテル、大衆浴場、飲食店、理容店などが利用していました。その多くは、水をお湯にする設備は持っていないのです。

その配湯が来年11月にはなくなる、という話の矢先、今回の大地震で設備が壊滅し、前倒しでお湯が来なくなってしまった、というわけです。

市に出向いても、「この事業は国の管轄で、市としては何の権限もなく、せいぜい、住民の納得を得てほしいし、そのための説明会を開いてほしい、と耳打ちするぐらい」とのこと。

こうした事業があること自体、初めて知りましたが、会社をたずねて住民の不安を伝えたら、「顧客以外のかたには話せません。行政指導も受けて、顧客のみなさんにはお知らせします」とのこと。

何の対策・補償の話もないままでは、住民の納得は得られるはずもありません。

【小名浜大原の家】

水/原発事故/東電社内と住民/広報車

きのうは「チョロチョロ」だった水道水が、きょうは3・11以前と同様に復旧しました。この18日間、ポリタンクやペットボトルその他にはほんとうにお世話になった、という思いです。白いポリタンクは、高校の恩師宅をたずねた際、「ウチは水道が復旧したから、この水を持ってけ」とあずけられたもの。12日前のことです。あしたにでも返そうと思います。水はほんとうに大事です。

避難所をたずねていたら、高久(たかく)小学校で、地元に住むいわき市農業委員会会長とばったり。「数日前に、災害対策本部前で宮川さん(県議)と高橋さん(市議)とばったり会ったんだ」。「原発事故に関わる農業の補償ははやくはっきりさせてほしい。それにしても原発事故は共産党の言うとおりの事態になったと思っている。立場はいろいろあるが、がんばってもらいたい」と。

小名浜地域の医療生協関係者や事業所をたずねました。いろいろ教訓めいた話がいっぱいです。

孫の友だちの東電社員が、建屋爆発直後に、「2~3日後には最悪の事態の可能性がある」と言っていて、家族で市外・県外へ転々と避難されたかた、お連れ合いの弟の東電社員が「いわきからは避難したほうがいい」と言われ、避難所生活から親子で県外へ避難したというかた。

東電社内のどういう情報かは定かでありませんが、いわき市住民に伝わる全国情報とはかなりのかい離があったと言うほかありません。

また、小名浜の海岸に近いところにお住まいのかたは、「地震後に、広報車がまわっていたが、何を言っていたかわからず、家の水が出なくなったので、断水情報かと思っていたら、隣りの人が会社から帰ってきて、津波が来るから避難しよう、と言われ、初めて津波が来ることを知った」と言うかた。

ほんとうに危機一髪というほかありません。

こうした現実をしっかりと受け止め、市民に寄り添う行政とはなんなのか、人減らしを進めればいいのか、しかと考えるべきです。

入浴送迎/放射能汚染への不安/いわき海星高/義捐金

平工業高校体育館の避難所からの入浴送迎バスを午前9時半に見送り。

わが家でも、けさから水道水が「チョロチョロ」と出始めました。

きのうから再開したせいきょうクリニック、先週金曜日に再開している岡小名デイサービスに寄りました。デイサービスでは、職員が地震当日の体験を利用者に語っていました。祖父母が津波にさらわれる直前、いっしょに必死に逃げていたかたに助けられた話は、涙なしには語れませんでした。

午前中は小名浜岡小名地域の医療生協総代など組合員宅を訪問。多くのかたが「放射能汚染」への不安を語ります。「家の中に閉じこもるのもいやだから、こうして庭いじりや野菜を植えている」、「原発建屋が爆発したとき、庭の畑の野菜をビニールで囲った」、「小さな子どもたちは心配だけど、もう私はいいよ」、「原発は終息するのかしないのか、何が最悪の事態なのか、政府発表ではわからない」などなどです。

【海星高校実習室】

訪問途中、海岸沿いのいわき海星高校にも寄りました。毎日片付けにきていると言う教員は、「はやく重機なり自衛隊なりに入ってもらわないと、流された車や瓦礫の山はまったく手付かず」と疲弊しきっています。

【海星高校津波被害】

海の人を育てる実習室は津波が貫通し、決壊した堤防が建物を襲っています。

午後は江名(えな)小学校体育館の避難所をおとずれ、様子をうかがいました。

きょうは、これまでに全国から党中央に寄せられた救援・救済募金から、500万円をいわき市長に手渡し、懇談しました。

ガソリン3時間待ち/入浴送迎/避難所生活の切実さ

けさの時点で、自家用車のガソリンはメーターの4分の1強はあって、まだ大丈夫なのですが、動き回るには気が気でないのです。

どこのガソリンスタンドが営業しているかわかりませんでしたが、きょうは覚悟して、車が行列している最後尾につきました。3時間待ちでしたが、満タンです。

待っている最中に、避難所で入浴を希望しているかたがたを入浴施設に送迎する件で電話がありました。先週末から、渡辺ひろゆき市議が、こうした要望にこたえようと、動き出していたのです。

市災害対策本部や各避難所にも知らせたうえでの協力共同です。

土曜日にその送迎で入浴したかたがいる避難所の知り合いに連絡したら、「今度はいつ来てくれるんだろうねぇ」と話題になっているんだそうです。

あしたその送迎を予定している避難所に行き、出発時間やそれまでに準備しておいてほしい旨を伝えると、「話は引き継いでいます。みなさんに伝えます。助かってます」と市職員。

ここには私の妻のいとこが避難していて、そのことも話したら、「さっそく入浴送迎の件で要望が出ている。手元に入浴のためのお金がない人、銀行にお金はあるが銀行にもいけない人が困っている。銀行が避難所に来て手続きしてくれるようにはできないのか」と。

ほんとうに避難所現場の話は切実なんです。

地震・津波と原発震災/明らかな人災/政策転換

大地震・大津波と原発震災について、私は県議現職時、2005年2月議会(2月28日)の一般質問で聞いています。

「大地震や大津波があったときに、原発が大事故を起こして大量の放射性物質を外部にまき散らすことで、地震災害と大規模放射能災害とが増幅し合う人類未体験の破局的災害は何としても避けなければなりません」という質問でした。

東京電力の福島県議会担当者は議会傍聴席で聞いていたに違いありません。

このときに、大津波によって、取水できなくなることは想定されていたことがはっきりしていたのです(05年3月9日、企画環境常任委員会)。

このことは実は、05年2月2日に「原発の安全性を求める福島県連絡会」が東電、同21日に県と交渉したなかでわかっていました。県連絡会として、同年5月10日には、東電に対し、「チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない東電福島原発の抜本的対策を求める申し入れ」をしていたのです。

06年3月1日には衆院予算委員会で、党の吉井英勝議員が、「最悪の場合、崩壊熱が除去できなければ、炉心溶融や水蒸気爆発、水素爆発とか、チェルノブイリに近いことを想定して対策をとらなければならない」と質問していました。

07年7月24日には、党福島県委員会・県議団・「原発の安全性を求める福島県連絡会」の連名で東京電力あてに、大津波が発生した場合、「冷却材喪失による苛酷事故に至る危険がある」として、福島原発の耐震安全性の総点検を求めていたのです。

今回は、非常用発電機が津波によって発電不能になり、原子炉の冷却ができなくなりましたが、まさに私たちが指摘したとおりになってしまったのであり、想定外なのではなく、指摘をかえりみなかった人災であることが明らかです。

これまでの原子力行政は転換し、原発の安全確保のための万全の体制づくり、新しい安全基準をつくり、全原発を総点検すると同時に、原発に頼らず、「再生可能エネルギーの開発と爆発的普及に力を尽くすべき」(吉井英勝著『原発抜き・地域再生の温暖化対策へ』新日本出版社、2010年10月刊)です。

5日前がきのうのよう/いまだ断水/民医連調査隊/総代さん

5日前、2日遅れで先週号の「しんぶん赤旗」日曜版を配り、きょう、今週号を配ったのですが、5日前がきのうのような感覚です。ホントなんです。

新聞を取りに党地区委へ行く途中の様子はほぼ毎日のように見ているのですが、車を止める余裕がありません。きょうはとにかく、地震以来、手がついていなさそうな道路やビル近くに車を止めて記録です。

【小島一丁目のビル】

【平工前から久世原団地への道路】

私の住む住宅地はいまだ断水で、21日の春分の日に11日ぶりに風呂に入って以来、また6日間、お風呂とは無縁の日々です。

【全日本民医連調査隊】

全日本民医連の「福島第一原発事故の現地調査」の2隊が福島県入りしました。1隊は小名浜生協病院といわき市内を調査。きょうまで楢葉町災害対策本部が置かれていた中央台南小学校の避難所と、いわき市災害対策本部にも同行しました。

【全日本民医連調査隊・副市長に申し入れ】

その後、生協病院近くの医療生協総代さん宅をたずねました。お一人は、南相馬市の実家が津波で流され、親族のお嫁さんが亡くなったんだそうです。現地へ行きたいのに行けず、「原発があるために、なぜ私がこんなに苦しめられないとならないの」とくやしさをにじませています。

もうお一人のお宅でも、「お茶でも飲んで話をしようよ」と。地元の区長の仕事もされており、そんな苦労話もされました。

行こうとしていた先はきょうは取りやめました。

炊き出し活動/避難特養訪問/職員に感謝

【小名浜・アクアマリン前】

被災後、連日、炊き出しをして戸別に食事や水をもって訪問活動をしている内郷の党事務所に行きました。

この2週間、直接の被災地や小名浜の医療生協関係者、避難所訪問、電話をいただいたかたがたの対応、市内各種団体の訪問活動などで、なかなか行くことができませんでした。

内郷での炊き出し活動はほんとうにすごいですよ。「これまでこの地域にいけなかったので、きょうはここへ入りましょう」と、連日、入る地域を朝の打ち合わせで決め、組織的に2人組、3人組で訪問しています。

こうした活動は党内ファックスニュースで知っていたので、集まったみなさんに敬意を表しつつ、私のこの間の行動や体験を報告し、引き続きいっしょに心をひとつにしてがんばりたい、とお話しました。

【江名・江ノ浦の碑】

このあと、「いわきゆったり館」へ。ここは、いわき市北部で、原発震災で避難している特別養護老人ホーム・翆祥園(すいしょうえん)のみなさんが来ています。

地震直後の2日間は電気・ガスが途絶えたなかで過ごしていたところ、3日目に原発震災によって、市のはからいによってここへ避難することになったそうです。

【薄磯】

午後は、被災後、最初の医療生協理事会。病院をはじめとした事業所や職員の状況、とりわけ被災しながらも、患者さん・利用者のみなさんを支えるために必死で職場を守っている職員には、理事会あげて感謝です。

【薄磯北街】

伝えきれないいわき市内の被災状況です。

のり面に亀裂/県漁連・市漁協/施設訪問

【中央台飯野】

【中央台飯野】

【中央台飯野】

中学同級生が住んでいて、「陸の孤島」となっている中央台飯野2丁目の一角に寄りました。家族や親族は全員無事でよかったのですが、その「孤島」があるのり面には大きな亀裂があり、のり面がそのまま道路側に移動したかのような状態。そのうえ、道路が盛り上がってアスファルトが持ち上がっています。地震が何をもたらすのか、ほんとうにわかりません。

午前中、県漁業協同組合連合会(県漁連)、この建物に避難して仮事務所を置いているいわき市漁業協同組合をたずねました。宮川県議、渡辺ひろゆき・高橋あき子両市議、党地区委員長といっしょでした。

県漁連では、県内漁協事務所がすべて壊滅し、連絡もできず、職員があげて自力移動で状況把握に努めていますが、いまのところ、把握は困難だそうです。

漁業再開への助成と融資、なにより原発災害の終息がいちばんの願いです。

市漁協では、船が残った漁業者はなにより水揚げできることを望んでおり、港施設の一刻も早い復興が望まれています。

船をなくし、船に乗るために港へ行くための車をなくし、漁具をなくし、家をなくした漁業者への補償もまた重要な課題です。

【舞子浜病院・室内廊下】

午後は高橋市議と養護老人ホーム・徳風園、長春館病院・シーサイドパインビレッジ(老人保健施設)・舞子浜病院、特別養護老人ホーム・楽寿荘をたずねました。

【徳風園】

徳風園は二重の防風林で津波はまぬかれたものの、地震によって浄化槽が機能喪失、原発災害による入所者避難の検討を具体化していました。

津波の直撃を受けた長春館・老健では、入院患者・入所者はきょうまでに全員別の病院・施設、あるいは自宅へ移動されたそうです。地震当日は、職員があげて患者さん・入所者を全員2階以上に移動させ、無事でした。その作業をされていた職員が一人、津波が来たちょうどその時に1階に降りていて、きょう、遺体で発見されました。まったくいたたまれない思いです。

楽寿荘は入所者全員が無事です。ただ、ここ四倉は、市内でいえば原発災害があれば最前線の地域。避難指示があった場合の対策は決めたものの、その場合はいわき市民全員が避難し始めるので、その場合のシミュレーションを市が示し、市民がパニックにおとしいれられることのないようにしてほしい、という話はまさに切実です。

きょうの政府会見は、そんな不安をさらに広めるようで、いったい現地の現実を知ったうえでの話なのだろうか、と思わざるを得ません。

津波被害/行政の姿/再開に感激

【沼の内浜街】

【沼の内浜街・ヤマヘイ前】

沼ノ内の堤防沿いでは、100mほどしか離れていないのに、一方では家が津波で破壊され、一方では津波による浸水被害にとどまったとのこと。

こういう現場を見るにつけ、やりきれない思いにさせられます。

小名浜大原地域の医療生協総代や組合員宅をたずねました。この地域は津波の被害はまったくありませんが、当日の地震による被害、その後の原発事故への不安はただごとではありません。

市内のどこの地域でもそうですが、行政が自分が住んでいる地域にどういう支援の手を差し伸べようとしているのかは、まったく見えない、という声は圧倒的に多いです。行政だけで対応できるとは私はまったく思いませんが、こうした声がどこでも出る事態は、行政はシカと受け止める必要があります。

税金を払う私たちは、こういうときこそ行政が住民の暮らしを支える姿を見せてほしい、と思うのは当然のことです。

住民に寄り添って働く公務員と、官僚をいっしょくたにして公務員バッシングをし、公務員をどんどん減らしてきたことの責任を、見きわめるべきだと思います。

夕刻には小名浜生協病院に全日本民医連から医療材料などの物資が届けられました。月刊誌「民医連医療」の編集部の仕事をしていた当時、編集委員をされていた、いまは事務局次長の広田さんと再会でき、感激です。

【要注意家屋】

沼ノ内から薄磯・豊間小へ

沼ノ内から薄磯に入り、豊間小まで歩きました。

【沼の内側から薄磯】

13日は県道豊間四倉線が瓦礫でふさがれ、この道路を通って沼ノ内から薄磯には入れませんでした。流された車だけがそのままでした。

【薄磯中街から山側】

【薄磯中街から山側】

薄磯中街あたりのバス道路から山側をながめてみました。

【薄磯・薄井神社から】

【薄磯・修徳院墓地】

修徳院の墓地に入る道はふさがれています。

北ノ作の田んぼの様子では、東側(右側)からやってきた津波が、薄井神社を左に見ながら南下して来たようです。

これから薄磯地域での作業が始まるようです。

【豊間小学校プールから】

【豊間小学校前】

【豊間中学校】

沼ノ内公民館の避難所をたずねると、4人のおばあちゃんたちが、「生き残った私たちががんばるしかないもんね」「いまから仕事をしたくてうずうずしてるんだ」と話をしてくれ、なんだか元気をもらえました。