隠された被曝

『隠された被曝』(矢ヶ崎克馬著、新日本出版社)を読みました。

著者は1974年以来、36年にわたって沖縄に在住し、物性物理学の研究にたずさわってきました。放射線学を専門としているわけではありませんが、2003年には原爆症認定集団訴訟熊本弁護団から内部被爆についての法定で証言をするよう要請され、「原爆被爆問題」に初めて立ち入ることになりました。

「科学で解明することができないことが多すぎるので、被曝の実相解明が進んでいない」とそれまでは思い込んでいたそうです。ところが事実は、政治と「科学」が一体となって「あからさまな偽り」が行なわれている、ということでした。

行政とえせ科学者が、まぎれもない被爆者を「あなたは被爆者ではありません」といい続けてきたのです。

科学者の良心が、事実にもとづき、まやかしの被爆認定基準を徹底告発した書です。

月曜のスタート/平市街地/出会い/知事申入れ

週の開始の月曜日の朝は、わが家の近くの定時定点でスタート。

午前中は、平市街地の6か所の街頭から訴えました。

ばったりと通りかかった高校同級生や叔父からの声援もさることながら、出てきて聞いてくれ、「参院選では共産党に入れた。なぜああいう結果なのかわからない。ぜひがんばってほしい」と声をかけてくれた2人、あるいはマイクをもって話している私に「応援し続けている。議席につながらないことが悔しい」と訴えるかた、またある場所では「いまの演説は気にいった。応援することにした」というかた。

街頭ではこうした出会いがあって、楽しいのです。

午後は県庁へ行き、党県委員会と県議団連名で、「県民の命、安全・安心を守る立場に立ち、プルサーマルの受け入れは撤回を」の県知事申入れをしました。応対してくれたのは内堀雅雄副知事(背中)。

前知事のもとで、国による「核燃料サイクル」を前提にしたエネルギー政策の決定手続き・内容に対して根本的な疑問を突きつけたうえで、「プルサーマル白紙撤回」をした県が、民主党国会議員だった現知事にかわったら、なにやら3条件さえクリアすればプルサーマルを受け入れる態度に180度の転換です。

県として国に突きつけた疑問がほとんど解決の方向すら見えないなかでの政策転換は、まさに民主党政権の政策の危うさの象徴だと思わざるをえません。

平和のつどい/返還日章旗/証言/街宣

きょうから8月。第7回いわき平和のつどい(市内17団体などの実行委員会主催)がありました。きのうときょうの開催でした。

会場となったいわき市文化センターの展示室では「韓国併合」100年市民ネットワーク提供の「韓国併合100年」の写真・資料展もありました。

引き込まれてしまったのは、「64年後にアメリカから返された日章旗」。おととし市内で亡くなった後藤義雄さんは、沖縄地上戦で戦った通信兵。630人中、奇跡的に生き残った3人の1人でした。

玉砕を覚悟し、自分がこの地で戦死したことを知らせる証拠を残したいと、日章旗を民家の屋根瓦に押し込みました。その日章旗を見つけられないままいわきに復員したのですが、アメリカのコロラド州在住のかたが、亡くなった伯父の遺品から発見し、厚生労働省を通じて昨年、返還されたものでした。

午後は、「今話しておきたい、あの『戦争』」と題した戦争体験者の5人の証言。それぞれのかたが海軍での体験、中国戦線の体験、戦争時の少年体験、学生時代の恐怖と貧困と空腹生活、「言いたいことを言えなくされると心にも思うことができなくされる」少女時代の体験をその当時の思いのままに語りました。

5人の証言者の1人は私の母親で、最年少の77歳でした。

証言者の証言に触発されたフロアからの実体験証言もあり、こうした体験が生かされていない今の政治に私はものすごい違和感を感じました。民主党政権しかりです。

その後、涼しくなった夕刻から、小川地域で地元の後援会員の宣伝カー運転で街宣しました。この地域は、車からの声援が多く、「共産党、もっとがんばれよ!」と力づけられた思いです。