「安全神話」の大罪/恐怖感情は子どもの責任?/政治家の責任

原発事故以後の、放射線をめぐる勉強会の機会を通し、「安全神話」の罪深さを深く感じています。

「安全神話」を振りまく片棒を担ぎ続けた政治家には、自ら責任をとってほしいと思います。が、「安全神話」に迷わず一貫して切り込んだ政党は共産党以外にないので、「みんなで渡れば」よろしく、誰も責任に言及しないかもしれません。「有権者がまた選んでくれた」と、選ぶ有権者に責任を転嫁することもおおいにありえます。

ともかく、これまでは、私たちの身の回りの放射線は、宇宙からのものを含めた自然界からの放射線と、1960年代前半までは堂々と行なわれていた核実験を含め、医療の場でのレントゲン写真など、人間が意図的に放射線を出す場合を前提に、被ばく放射線限度量が示されていたのだと思います。

ところが今回の原発事故は、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故、1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故につづき、あるいはそれら以上に、制御しようがなく放射線が出続けるかもしれない事態です。

なにせ日本は、こうした事態は「ぜったいない」ことを前提に、原発を増設し、プルサーマルを進め、放射線が出続けるときの身体影響や避難体制など、考える必要はない、と、国家をあげて国民に刷り込んできた国です。

そういう意味で、大人たちが政治的に無知を強いられ続けたきたときに、こうした事態に遭遇しました。大人たちが、「放射能」と聞いただけで恐れおののく頭にさせられてきたわけです。

子どもたちは、何を根拠に大人たちが恐れおののいているのかわかりません。聞いても答えてくれません。場合によっては、大人の恐怖感情を、子どもたちがいだいているんだ、と何も知らない子どもの責任にする場合すらありえます。

「安全神話」の底なしの罪深さをここに私は感じるのです。「安全神話」を振りまいた政治家のみなさん、責任をとってください。