ガッツポーズ・Vサイン/妻の実家地域/中身は変わらない

鳩山首相辞任後の最初の朝の定時定点での街宣では、4方向から通勤するそれぞれの車から声援があります。とくにガッツポーズやⅤサインにはこちらも力が入ります。

午前中は妻の実家がある地域の7か所の街頭から訴えました。わざわざ「妻の実家がある地域」というのも、義父の友人というかたが「おまえがシゲちゃんの息子か、初めて会えた」と言って拍手してくれたり、叔父が「外には出てこないが家の中で聞いている人がけっこういるんだぞ」と言ってくれたりするもんですから。

確かに、話し終えると家の中から拍手するかたがあり、ごあいさつに寄ると、「言うとおりだよ。私の身近に契約期間が切れた、と言って仕事がない若い人たちがいる。こんな世の中にした政治は変えないとならない」とエールを送られました。

午後の行動予定時間に突然の雷雨。読みかけの『思い出袋』(鶴見俊輔著)を急いで読みきったしだいです。

1時間半後、雨があがってから平地域の後援会員とお知り合い宅を訪問しました。ちょうど菅直人首相が生まれた直後でしたが、民主党の公約破りの8か月半に責任がある人物であり、表紙が変わるだけで中身が変わるとは思えない、共産党がちゃんとがんばってくれ、応援する、という声が多い訪問でした。

ペロはきのう「散髪」しました。

思い出袋/「勁く」/「北斗七星」

『思い出袋』(鶴見俊輔著、岩波新書)を読みました。岩波書店の読書家の雑誌『図書』に80歳から7年にわたって連載した「一月一話」をまとめ、終章に「書ききれなかったこと」を書き下ろした本です。

80代の戦後思想史の専門家がどんな言葉を残してくれているのだろうか、という関心から読みました。こうしたかたがたが残してくれる言葉は財産だと思うので。

それより、オビに「勁くしなやかな思想と言葉」と書いてあるのですが、「勁く」が読めなくて、ほんとうに久しぶりに漢和辞典を調べました。「つよく」と読みます。

鶴見さんは、「九条の会」呼びかけ人の一人でもありますが、私の頭に強烈に残っているのが大学時代に読んだ久野収さんとの共著『現代日本の思想』(岩波新書、1956年発行)の次の言葉です。

「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは、北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、1926年(昭和元年)から1945年(昭和20年)まで、日本の知識人によって用いられてきた」。

普天間基地解決の道(「かけはし」6月号)

民主党としての公約反故

5月28日、日米両政府が普天間基地の沖縄県内移設と全国へ米軍の訓練を拡散する日米合意をかわしました。

鳩山首相が辞任を表明したのはその5日後です。

辞任の理由に普天間問題をあげたものの、「名護市辺野古移設」を撤回しませんでした。

この日米合意は、菅首相になったからといってなくなるわけではありません。民主党とその政権が進めたものだからです。

民主党は旧自公政権が結んだ米軍再編計画について「見直しの方向で臨む」としていたのです。

ところが民主党政権下の日米合意では、旧自公政権時の「再編案を着実に実施する決意を確認した」のですから、党として公約を完璧なまでに反故にしたのです。

生活の場だった「普天間基地」

 普天間基地の場所にはかつて、民家も、村役場も、国民学校も、郵便局も、墓地も、サトウキビをしぼって黒糖をつくる製造所もあった生活の場だったそうです。

 1945年3月下旬、アジア・太平洋戦争の末期、米軍が上陸し、地上戦が始まりました。住民は収容所に強制的に収容され、同年6月、日本本土を攻撃するために建設されたのが普天間基地です。

 基地は、サンフランシスコ条約が締結された1951年以降も、米軍が銃剣とブルドーザーによって、抵抗する住民を強制的に排除し、さらに拡張されました。

無条件撤去が解決の道

 ハーグ陸戦法規では、戦闘状態でも、敵国の民衆の財産権は侵害しない、戦闘が終わったらすみやかに返還するべき、と規定しています。

 普天間基地は、この戦争法に反し、米軍が住民の土地を強奪してつくった基地です。返すのが当たり前で、返すのに条件をつけるほうがおかしいのです。

 だから、無条件撤去こそが普天間基地解決の唯一の道です。