表現の自由/政治の中身/マスコミの存在意義

参院選が公示されると、とたんに表現の自由が制限されます。

私の宣伝カーからは音は出せなくなるし、候補者である「日本共産党」も「いわぶち友」も自由には出せなくなります。「自由民主党」がこうしたべからず選挙のしくみをつくりました。

今まで毎週月曜の朝に宣伝していたわが家の近くの交差点で、共産党の名前が入っていない政策を書いたのぼり旗とポスターを手にして通勤されるみなさんにごあいさつしました。

手を振っていってくれるかた、クラクションを鳴らしていただくかた、声をかけていただくかた、ほんとうにありがとうございます。

きょうは一日、小名浜地域の後援会員といっょに、ご自身が住む団地と育った永崎地域のお知り会い宅を100軒弱訪問しました。

民主党政権に対する失望と、自民党にもどる気はないという声は、マスコミが政策抜きにあいかわらず「民主か自民か」みたいに世論調査を報道する結果とはかなり乖離している実感です。

政治の中身抜きの選挙結果を演出する大手マスコミの存在意義が問われる時代ではないでしょうか。大企業と政府による広告料に依存するマスコミが果たして権力監視・社会の木鐸の役割を果たしうるのでしょうか。根本的疑問です。

憲法がめざす幸せの条件

『憲法がめざす幸せの条件』(日野秀逸著、新日本出版社)を読みました。

著者の専門である経済学や社会保障の視点から、「平和と健康は幸福の条件」というテーマで、憲法9条と25条と13条にかかわる課題を提起しています。

私たちは、幸福に暮らしたい、とごく自然に願うし、幸福に暮らしたいというとき、平和のもとでの幸福、そして健康で文化的な内容の幸福を追求したいと思います。経済的・金銭的損得勘定に基づく暮らしの幸福を望む、ということはあまりないと思います。

「平和に生きる」ことにかかわる憲法9条、「幸福に生きる」ことにかかわる憲法13条、「健康で文化的に暮らす」ことにかかわる憲法25条は、こうして、ごく普通に生きる人間のためのものであることがわかります。

また健康は、「自然を変え、社会を変え、自分自身を変え、そして人生を楽しむという四つの人間独自の活動ができるような身体的、精神的な、あるいは社会的な状態」ととらえます。

そして私たち一人ひとりが「自覚と協同の力に依拠して広くくらしをつくり変え、地域をつくり変え、さらには政治をつくり変えていく」ことを健康づくりの内容と提起します。