かけはし/「冬支度」/真剣な思いを託す

私と宮川さんの通信「かけはし」の今月号をご近所240軒ほどに配布しました。

ご近所とはいえ、初めてお会いして話をかわすかたもいらっしゃいます。「いつもありがとうございます。状況は一変しましたね。ぜひがんばってください」と声をかけられました。若いお母さんです。こうした声が広がっていることを実感しています。

検診の予約をし、ペロの食料を調達し、本屋に寄り、家では新聞の切り抜き・処分の作業をしました。ホームセンターは「冬支度」です。

3日前に掲載した文字ばかりの写真は、6年前の「福島県議会定例会会議録」、要するに議事録です。福島県議会ホームページからもアクセスできます。

「大地震や大津波があったときに、原発が大事故を起こして大量の放射性物質を外部にまき散らす」と6年前に指摘していたことは、この間の訪問でも、たいへんに驚かれます。

あってはならないから言ったのですが、現実になってしまったのです。言った本人としては無念なのですが、憤りとともに複雑な心境です。

こんな体験を子孫にさせるわけにいきません。「原発はいらない」、この声を、いちばん強く発信できるのは福島県民であり、その機会が県議会議員選挙です。

これまで原発を推進しながら、「反省しますからまたよろしく」「自然エネルギーを勉強しましたからよろしく」「国策に口をはさむなと言った姿勢をあらためるからよろしく」といった人たちに、私たちの真剣な思いは託せないと私は思います。

憲法が息づく日本へ/「戦後」の日本語の枠組と決別

『3.11を生きのびる』(小森陽一編、かもがわ出版)を読みました。副題が「憲法が息づく日本へ」。

「九条には、二一世紀以降の人類の理想が含まれています」と言う梅原猛さんは、哲学者だけにフランスをこう評しています。

「デカルトは…もっとも確実なものは、理性を持った『われ』である…それに対峙する世界は自然世界である。自然世界は数学的な法則によって支配されている。その法則を知って科学を発展させ、自然を支配する技術を発展させる。そうすることによって自然は人間に唯々諾々と従う奴隷のごとくになる。このように考えるのです…フランスが電力の約八〇パーセントを原発に依存しているのは、デカルトの国として当然」。

こういう見方もあるのです。

渡辺治さんは、憲法二七条の勤労権や二六条の教育を受ける権利、一三条の自分の個性に応じて幸福を追求する権利に触れ、「憲法二五条は、憲法の諸人権条項を束ねる人権」と言い、九条は「人間らしく生きる権利の不可欠な部分」であり、「人間らしく生きるための土台をつくる権利」と位置づけ、「三月十一日の悲惨と犠牲を無駄にしないため」、二五条と九条を具体化する日本をつくる方向を指し示しています。

編者の小森さんは、「本書の七人の著者たちが…同じ“nuclea”という概念を、『兵器』の場合は『核』、『平和利用』の場合は『原子力』と言いかえてきた、『戦後』の日本語の枠組と決別する」ことを、共有する観点だと評しています。