憲法が息づく日本へ/「戦後」の日本語の枠組と決別

『3.11を生きのびる』(小森陽一編、かもがわ出版)を読みました。副題が「憲法が息づく日本へ」。

「九条には、二一世紀以降の人類の理想が含まれています」と言う梅原猛さんは、哲学者だけにフランスをこう評しています。

「デカルトは…もっとも確実なものは、理性を持った『われ』である…それに対峙する世界は自然世界である。自然世界は数学的な法則によって支配されている。その法則を知って科学を発展させ、自然を支配する技術を発展させる。そうすることによって自然は人間に唯々諾々と従う奴隷のごとくになる。このように考えるのです…フランスが電力の約八〇パーセントを原発に依存しているのは、デカルトの国として当然」。

こういう見方もあるのです。

渡辺治さんは、憲法二七条の勤労権や二六条の教育を受ける権利、一三条の自分の個性に応じて幸福を追求する権利に触れ、「憲法二五条は、憲法の諸人権条項を束ねる人権」と言い、九条は「人間らしく生きる権利の不可欠な部分」であり、「人間らしく生きるための土台をつくる権利」と位置づけ、「三月十一日の悲惨と犠牲を無駄にしないため」、二五条と九条を具体化する日本をつくる方向を指し示しています。

編者の小森さんは、「本書の七人の著者たちが…同じ“nuclea”という概念を、『兵器』の場合は『核』、『平和利用』の場合は『原子力』と言いかえてきた、『戦後』の日本語の枠組と決別する」ことを、共有する観点だと評しています。

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