原発とは/原発に頼らないことを訴えた「国民」は?

『原発とは結局なんだったのか』(清水修二著、東京新聞)を読みました。

著者は、7月の福島県議会海外行政視察に顧問として私費で同行してくれた福島大学教授です。2008年4月から今年3月までは副学長として原発事故後の対応にも奔走されました。

財政学・地域論を専門にする立場から、原発には一貫して批判的な立場をとってきた学者です。京都大学の私の大先輩でもあります。

著者にとって、答えは出ているように思えるので、本書のタイトルでは過去形表現をとった、とのこと。

結論を書いてしまうと、原発とは、国民の「自覚なき選択」と「怠惰な現実主義」に支えられた存在であり、「国民から遊離した科学」の世界に置かれてきた技術であり、日本的な金権システムをテコに地域住民や地方自治体を「理性より利害」の世界に取り込んで立地を促進する「地域差別の構造」をはらんだもの。

原発を批判し続けたご自身を含め、原発に頼らない社会を訴え続けた「国民」の姿に触れられていないことが私の不満です。

悪魔の消費税の大ウソ/消費税に頼らない道

『消費税増税の大ウソ』(山家悠紀夫・井上伸著、大月書店、今年2月刊)、『税が悪魔になるとき』(斎藤貴男・湖東京至著、新日本出版社、今年8月刊)をまとめていっきに読みました。

いわき市議選と海外行政調査報告書づくりがかさなって、本を読む間もなく、街頭やつどいなどでは消費税増税実施をやめさせるために、怒りと熱意をもって語っていました。

「大ウソ」のほうは、国家公務員労働組合連合会(国公労連)ブログでのインタビュー記事を書籍化したものです。

それだけに、日本の国家公務員数がフランスの10分の1でしかないこと、公務員と公的部門職員の人件費がGDP比でOECD27か国の中で最低であること、国家公務員が減りつづけているのに、財政赤字は増えつづけている事実も資料で紹介されています。

日本は「大きな政府」で公務員人件費が高い、というのも大ウソなのです。

「悪魔」のほうは、「消費者が負担しているというウソ」、「転嫁できなくても、転嫁していることにする」、「消費税は『間接税』ではない!?」などの消費税の欠陥、財界が消費税アップを要求するカラクリをみごとにあばいてくれます。

消費税に頼ることなく、財政再建も社会保障再生・充実もできる道を示してくれる2冊の本です。

防災対策の転換

『新たな防災対策への転換』(中村八郎著、新日本出版社)を読みました。

著者は東京都国分寺市役所で20年間、防災都市づくり、都市計画の分野の業務に取り組んできた自治体防災行政の専門家でもあります。

今回の未曾有の大震災であらためて、日本が「地震国」で、どこでも地震に見舞われる可能性があることを教えられました。

この可能性を前提に、地震発生とこれに伴う諸現象への十分な配慮による国土・地域づくり、土地利用、施設整備が必要ですが、これまでの政策はむしろ逆で、災害への脆弱化を増大させてきた、と著者は指摘します。

これまでの防災対策は、被災後の応急対策に偏重し、経済効率優先の土地利用が進められ、広域的施設を優先した社会基盤整備が進められてきた点は、根本的な誤りがあったと問わなければならない、と。

災害の未然防止対策を重視し、防災的視点による自然立地的土地利用の重視、都市部及び地方部の地域ライフライン、生活基盤施設の充実、これらを具体化する地域社会における自治体及びコミュニティー防災を強化する政策への転換が不可欠として、具体的提言をしています。

学校改革/学びの共同体

 

『学校を改革する』(佐藤学著、岩波ブックレット)を読みました。

たまたま、きのう・きょうの「しんぶん赤旗」の「学問・文化」欄に、「学びの共同体」をテーマとした著者の上・下のインタビュー記事が載っていました。

いま全国では、学びの共同体の学校改革に挑戦している小学校は約1,500校、中学校は約2,000校、高校は約300校で、約300校のパイロット・スクールが改革の拠点となってネットワークを形成しています。

著者がこの改革を提唱し、実践し始めたのが30年ほど前、爆発的な普及を遂げるのが15年ほど前、今世紀に入ってから、韓国、メキシコ、アメリカ、中国、シンガポール、インドネシア、ベトナム、インド、台湾などと、海外にも普及しています。

著者自身が本書を「学びの共同体の学校づくりの入門書であると同時に、現代社会と学校教育の将来をデザインする手引書」としています。

学校の公共的な使命と責任は「一人残らず子どもの学ぶ権利を保障し、その学びの質を高めること」にあり、学びの〈質と平等の同時追求〉によって「民主主義社会を準備すること」にある、とする著者が、きわめてコンパクトにまとめた入門書であり、手引書です。

チェルノブイリ・ハート

『チェルノブイリ・ハート』(マリオン・デレオ著、合同出版、昨年9月刊)を読みました。

著者はドキュメンタリー映画作家で、2003年にこのタイトルの映画を制作し、04年のアカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞、06年には国連総会で上映されたそうです。

「チェルノブイリ・ハート」とは、チェルノブイリ事故直後から増加傾向にある、心臓に複数の穴が開く先天性障害の疾患を、ウクライナ人がそう呼んでいる、とのこと。

行政調査では、こういう実情まで踏み込むことはできませんでした。

私自身、この本で初めて知りました。

道ひとすじ/革命的楽天的熱愛的人生

『道ひとすじ』(上田七加子著、中央公論新社)を読みました。

同社発行の『婦人公論』2011年1月から3回にわたり、「夫・不破哲三との革命的熱愛人生」に連載後、新たな取材・加筆・再構成して本になったものです。

七加子さんは83歳、不破さん(本名・上田建二郎)は82歳。七加子さんは19歳で日本共産党に入党し、20歳で不破さんと婚約。それから60余年。

夫が国会議員、党の書記局長、委員長、議長と公的な立場に立たされた長い年月も、その年代ごとに、ご自分ができることを精一杯にがんばれたことなど、いつも目の前にあることのほうが、大切で、おもしろく、性に合っていた、とのこと。

この世に人間として生まれた以上、もっとも人間らしく生きられるように、よりよい社会をめざして働き、この道をただひとすじに生命ある限りこれからも歩きたい、と、はなはだ「革命的楽天的熱愛的」な人生を見せてもらった思いです。

住み続ける権利/総括的な権利

『住み続ける権利』(井上英夫著、新日本出版社)を読みました。

貧困、過疎、震災、ハンセン病といった、研究者としての現場体験からこの権利の確立を提起する書です。

それらの現場を見たときに、侵害されているのは働く権利、医療を受ける権利、社会保障を受け健康で文化的な生活を営む権利、教育を受ける権利、居住・移転の自由といった種々の人権です。

その全体状況を見たときに、「住み続け」られなくされている、ということです。住み続ける権利を保障するには、それぞれの個別の人権がしっかり保障されなければならない関係にあり、総括的な権利が「住み続ける権利」です。

「住み続ける権利」の構造は、平和的生存権(憲法前文・9条)を基底的権利として、「居住・移転の自由」(同22条)を土台にしながら、生命権(同13条)、生存権(同25条)、労働権(同27条)、教育を受ける権利(同26条)、労働基本権(同28条)、財産権(同29条)などを含め、人間らしく生きるための人権として立体的に構想されるべき、と、現場に立脚した話は説得的です。

原発労働者/「派遣、ピンはね、篏口令」

『「最先端技術の粋をつくした原発」を支える労働者』(樋口健二・渡辺博之・斉藤征二著、学習の友ブックレット)を読みました。

「渡辺博之」とは、わがいわき市議会議員です。昨年は、月刊誌『経済』(新日本出版社)12月号の特集「今日の労働者状態」に「原発労働者の下請け構造」と題し、生活相談から見えてきた原発下請け労働者の過酷な実態を報告していました。

また、昨年8月4日に日本弁護士連合会が主催した震災・原発問題の連続シンポジウム第1回のシンポジストを務め、今年1月にはその記録が岩波ブックレット『検証 原発労働』として出版されています。

本書では、原発下請け労働者の聞き取りに加え、提供された給与支払明細書・放射線管理手帳・作業実績表・作業月報なども示され、「派遣、ピンはね、箝口(かんこう)令」の実態、民主化が求められる原発労働を提言しています。

樋口さんは、25歳のときから写真を撮り始めて50年、原発の写真を撮り始めて38年になるフォトジャーナリストです。

斉藤さんは、1967年の美浜原発の基礎工事の建設から原発の仕事にたずさわり始め、1981年に「運輸一般労働組合原子力発電所分会」を公然と立ち上げたその人です。

橋下氏の手口/言葉を言葉で疑う

『橋下「維新の会」の手口を読み解く』(小森陽一著、新日本出版社)を読みました。

「橋下徹的政治手法の基本的な手口を、言葉の使い方の側面から分析し、そのからくりを解きあかすこと」がこの小冊子の目的です。

ハッとさせられたのは、「一般に民主制のもとでは、『独裁』という政治形態は、支配される側としての大衆の政治参加と積極的な支持によって可能になります。マス・メディアを使った大衆的な意識や感情の操作によって実現するわけです。その場合、人々は独裁という非民主的な政治を自覚的に支持しているというよりは、むしろ自らの政治的要求が実現する道だと錯覚させられている」という指摘。

だから、橋下氏が「善玉」のようにマスコミなどによって持ち上げられているなかで、「『善玉』になった人を、理由をあげずに『独裁者』と非難だけしていると、その批判者が『悪玉』にされてしまう」。

言葉をあやつる生きものとしての人間の尊厳をかけ、言葉を言葉で疑い、ウソをひっくり返すことも、民主制のもとでの有権者の仕事です。

巨大津波と生態系/トンボを襲うテントウムシ

『巨大津波は生態系をどう変えたか』(永幡嘉之著、講談社ブルーバックス)を読みました。

著者は、図鑑に使うような動植物の写真を1枚ずつ時間をかけて撮り続けてきた自然写真家。

あの巨大な津波によって自然環境に起こったことを、ひとつでも多く、正確に記録するため、福島県いわき市から青森県下北半島まで、昨年12月までの約100日間、5万kmを走ったんだそうです。

1年経っていない段階なので、「種の絶滅という『大きな絶滅』は幸いにして起こっていないようでも、個々の場所での『小さな絶滅』が積み重なっている」ようです。

重要だと思ったのは、「津波そのものよりもむしろ、土地利用が進んだことによる、砂浜や湿地の孤立と分断の影響」、「津波の影響ばかりでなく、それまでに人間が続けてきた環境改変によって、震災以前の時点で『隅に追いやられた状態』になっていたものが多かった」という指摘。

また、環境アセスメントが震災によって免除が相次いでいても、「従来の取り決めを守る努力がなされ、砂浜の瓦礫撤去や堤防修復の際には県内の有識者への聞き取りを行うことで、希少種への配慮がなされていた」福島県職員の仕事への評価がされています。

「羽化するオツネントンボを襲う2頭のジュウサンホシテントウ」の第5章の扉写真にはちょっとびっくり。テントウムシの大発生によって、餌が欠乏したために、通常では考えられない場面だそうです。

6月までにはもともとテントウムシが少なくなっていたことによってアブラムシが大発生し、今度は大量の餌を前にテントウムシが遅れて大発生したようなのです。