エネルギーを選ぶ時代

『エネルギーを選ぶ時代は来るのか』(NHKスペシャル「日本新生」取材班、NHK出版新書)を読みました。

こういう時期に、「これが問題だ! こうしてエネルギー問題を解決すべきだ!」という強い主張が感じられないことに多少の不満は感じますが、しかし、十分にそんな思いを汲み取ることはできます。

「できるだけ多くの現場に立ち、ひとりでも多くの関係者から証言を得ること」という立場に徹し、電力の「地産地消」のとりくみ、大規模集中型の電力システムがこうしたとりくみをはばむ壁になっている現状、スペインやスウェーデンまで飛んだ取材など、学ぶところ大です。

原発のコスト

『原発のコスト』(大島堅一著、岩波新書)を読みました。

原発事故は、福島県に限らず、農林水産業を含め、たいへんなマイナスをもたらしました。事故による補償も、損害賠償を含め、進み始めています。事故にかかわらず、原発推進のための国家財政投入、使用済核燃料の処理・処分に当然にコストがかかります。

「原発のコスト」と言った場合、「発電コスト」には限らないわけです。

「あとがき」が印象的です。「すべての科学は批判的であるべきですが、こと原子力政策については、社会科学の領域でも批判的に研究している専門家は極端に少なく、時として孤独な作業を強いられます」。

人類との共存そのものが問われる原発は、こうして、批判を排除して推進されてきたのです。

少なくとも本書で指摘されていることは、市民常識にしたいものだとつくづく私は思います。

やさしい放射能教室

『安斎育郎のやさしい放射能教室』(合同出版)を読みました。

「しんぶん赤旗日曜版」の今年(2011年)7月31日から10月16日まで12回にわたって連載した記事に加筆・修正をしてまとめた本です。

安斎さんは半世紀にわたって原子力分野にかかわり、勉強しているうちに国の原子力政策に疑問をもち、批判し続けてきた放射線防護学の専門家です。

「いま何ができ、何が有効か、いのちやくらしを守るためにどうすればいいのか。正確な情報と知識を伝えていくことも…科学者としての社会的責任」との思いで、いまさら聞けないハテナの疑問に答えてくれます。

被災者目線

『「被災者目線」の復興論』(日野秀逸著、新日本出版社)を読みました。

東日本大震災は、大規模性と複合性と超広域性と長期性を特徴とする大災害です。とくに原発事故の被害はいつまで続くのか、予測すら立ちません。

こうした大震災からの再建・復興には、被災者を中心とした住民が再建方針の策定に大きく関わり、再建方針を市町村と県がバックアップし、とくに財政的には政府が全面的に支援することは不可欠です。

ところが、6月25日に菅直人首相(当時)に答申された、東日本大震災復興構想会議の「復興への提言」、著者が住む宮城県の「震災復興計画(第二次案)」(8月22日確定)は、こうした点からはかけ離れているといわなければなりません。

ここには、「上から・外から・被災者以外の視点から再建・復興を利用する」意図がありありです。

被災地・被災者・現地からの再建・復興をなにより優先させなければなりません。

原発賠償

『原発賠償の行方』(井上薫著、新潮新書)を読みました。

「原発事故の賠償問題は、現在議論の空白地帯を形成して」おり、「必要であるにもかかわらず、あまり議論されてこなかった原発事故の問題に焦点を当て」、「あくまでも冷静に論理的な検証」に心がけた元判事による本です。

憲法によって国民主権が貫かれ、法治国家である現時点での法制度のもとで、東電以外の会社に損害賠償金を負担させることも、浜岡原発を停止させる要請も、東電に融資している金融機関に債権放棄を求めることも、原発の再稼動の条件にストレステストを導入することも、ありえないことなのに、そういう指摘や議論がほとんど見られない、と著者は強調されているように受け止めました。

「『東電が悪い』『政府のせいだ』で議論をおしまいにして思考停止するのでは、『事故はおきない』と信じ込むのと同じ」の指摘をシカと受け止めなければなりません。

原発をめぐる現在の法制度は、「原発は大事故を起こさない」ことが大前提になってしまっているのです。

そしてまた「政府の策定した賠償枠組みは…実質的な賠償金の負担者として加害者である東京電力を外し、これは丸ごと温存させ…実質的な負担者は何の責任も本来ありえない電気の購入者、つまり加害者以外の善良な国民に対して巨額な賠償負担をさせることを決めた」ことも看過できません。

著者自身は、「ここまでひどい迷惑を人にかけておきながら、なお『想定外』と言う自称専門家には、強い違和感を抱き」(あとがき)、「被災者の方々には、放射能と風評等と被害との因果関係の立証に困難を感じて個別の賠償請求をあきらめることのないようにお願いしたい」(はしがき)と言っています。

素粒子はおもしろい

『素粒子はおもしろい』(益川敏英著、岩波ジュニア新書)を読みました。

ノーベル賞受賞論文をお風呂でひらめいた話の第1章から第6章までは素粒子の話ですが、「二一世紀を生きていくみなさんに、科学を学ぶ意味と姿勢について、お話しておきたい」という第7章が私にはいちばんおもしろいです。

「科学というものは、人類にとってより多くの自由を準備するもの…ということは、それをどういうぐあいに使うかという人間側の選択が入ってくることにもなる」

「基礎的であればあるほど、科学は人類に対してより多くの自由を提供してくれる」

「科学が発達すればするほど、科学そのものが人々のところから離れ、遠いものになっていく…じつは人々の思考をマヒさせている」「私は『科学疎外』がおきているという言い方をしています」。

「科学というのは肯定のための否定の作業である」。

深いなぁ、と思います。

ダークエネルギー

『宇宙のダークエネルギー』(土居守・松原隆彦著、光文社新書)を読みました。

夜空に見える星々の間には、何もないわけではなく、「ダークマター」という正体不明の物質が大量に存在していることがわかっているんだそうです。

そしてまた、星や銀河などの目に見える天体と、目に見えないそのダークマターを合わせても、宇宙全体を構成する成分としては、まだ足りないことが明らかになっているんだそうです。

それを埋め合わせるのが「ダークエネルギー」というわけです。

宇宙を加速膨張させる原因となるものがこのダークエネルギーなのですが、まったく正体不明です。

このエネルギーが宇宙のエネルギーの73%を占めています。

私たちの宇宙の捉え方が根本的に誤っているのかもしれないのですが、現時点ではわかりません。

既存の理論を特殊な場合としてその中に含む、新しい理論がこれから生まれる、という話です。

原発の闇

『原発の闇』(赤旗編集局著、新日本出版社)を読みました。

アメリカから日本に原発が持ち込まれた「源流」をたどり、その後の経過を追いながら、原発推進勢力の野望と実態に追ったルポルタージュです。

原発推進の歴史としくみは、電力業界や関連大企業をはじめ、原発推進の政治家や官僚・行政、専門家や一部のメディアが、みずからの利益のために、国民の命を危険にさらし続けてきた足跡そのものです。

「しんぶん赤旗」の政治部、社会部、経済部など編集局あげての調査・取材に基づくもので、超優良企業の電力会社をスポンサーとしてきた大手メディアにはおよそ掘り起こせないテーマなのではないでしょうか。

原発に固執する勢力はいまだ原発をあきらめてはいません。「原発ゼロの日本」を望むみなさんにぜひ手にとってほしい本です。

原発ってなに?

『娘と話す 原発ってなに?』(池内了著、現代企画室)を読みました。

原発事故直後、別の出版社から執筆の依頼があったそうですが、「震災と原発事故に大きなショックを受けるとともに、安全神話を振りまいてきた人々に対する怒り、政府や東電の無責任さへの絶望に捕らわれており、まともな本にならないと思ったから」断らざるを得なかったそうです。

事故から4か月ばかりたってから、これまで主張してきたことをまとめればなんとかなるのでは、とできあがったのが本書です。

原発の仕組みや放射能・放射線など原子力にかかわる問題を整理しながら、原発が抱えている諸問題や文明のありようにまで踏み込んでいます。

「少なくとも、浪費に明け暮れ、負の遺産だけを残している世代においても、未来を想像して警告する人間がいた、それがせめてもの償い」と、この大学者に思わせるのが、この原発事故だったのです。

憲法が息づく日本へ/「戦後」の日本語の枠組と決別

『3.11を生きのびる』(小森陽一編、かもがわ出版)を読みました。副題が「憲法が息づく日本へ」。

「九条には、二一世紀以降の人類の理想が含まれています」と言う梅原猛さんは、哲学者だけにフランスをこう評しています。

「デカルトは…もっとも確実なものは、理性を持った『われ』である…それに対峙する世界は自然世界である。自然世界は数学的な法則によって支配されている。その法則を知って科学を発展させ、自然を支配する技術を発展させる。そうすることによって自然は人間に唯々諾々と従う奴隷のごとくになる。このように考えるのです…フランスが電力の約八〇パーセントを原発に依存しているのは、デカルトの国として当然」。

こういう見方もあるのです。

渡辺治さんは、憲法二七条の勤労権や二六条の教育を受ける権利、一三条の自分の個性に応じて幸福を追求する権利に触れ、「憲法二五条は、憲法の諸人権条項を束ねる人権」と言い、九条は「人間らしく生きる権利の不可欠な部分」であり、「人間らしく生きるための土台をつくる権利」と位置づけ、「三月十一日の悲惨と犠牲を無駄にしないため」、二五条と九条を具体化する日本をつくる方向を指し示しています。

編者の小森さんは、「本書の七人の著者たちが…同じ“nuclea”という概念を、『兵器』の場合は『核』、『平和利用』の場合は『原子力』と言いかえてきた、『戦後』の日本語の枠組と決別する」ことを、共有する観点だと評しています。