水曜日定時/内郷・好間行動/小集会/また街宣

水曜日朝の定時定点は、週に一度のJR常磐線の北側。7時10分過ぎぐらいに自宅を出て、25分ぐらいかけて現地到着。朝の通勤時間の渋滞で、通常は10分ぐらいなのが、これだけかかります。

その後は内郷(うちごう)・好間(よしま)地域の党と後援会のいっせい行動。きょうの行動のスタートは、3月2日以来、7か月半ぶりのスーパー前いっせい街宣でした。

広い駐車場のあちこちで車の脇に立って聞いてくれる人、店舗出入り口で聞いてくれる人、宣伝カーの前を通っていく車から手を振って行ってくれる人が少なからず、たいへんに励まされました。

そして要望が出されている地域を回りながら街宣。ある地域は、3月11日の大地震で山肌が見え、4月11日の市内震源の地震でその山肌が広がり、先日の台風の大雨のときに山崩れ。その真下の住民は避難を余儀なくされ、県もその対応と対策を始めている現場のかたの話を聞きました。

午後は、先日訪問して歩き、ここで話を聞かせてほしい、と言われていた地域で小集会。私から、原発から撤退し、自然エネルギーを本格的に導入し、爆発的に普及するエネルギー政策の転換を、11月20日投票の県議選で、いわき市民の意志として、いっしょに示そう、と訴えました。

そのあとはまた、4か所の街頭から訴え。どこでもおおいなる声援があり、力づけられます。ありがとうございます。

小名浜定時/走行距離150km/川前と三和

火曜日朝は小名浜での定時定点。8時前にここを散歩されているかた、通学する高校生からもいつも激励を受けています。

きょうは川前(かわまえ)地域と三和(みわ)地域での街宣とチラシまきの行動。1日の走行距離は150kmを超えました。

川前駅前では、ご近所のかたがたが出てきて聞いてくれました。話し終えるころに出てきてくれたかたは、「原発の話をしていたようなので、洗濯物を干し終わってから来てみたんだ」と。親族が津波の直撃を受けた豊間(とよま)地域で自営業をしており、直後にそこへ行ったのですが、ガレキにおおわれていたことや、原発事故による放射能汚染問題でしばしの対話となりました。

川前の下桶売(しもおけうり)の地域では、商店主が、「この近くで放射線量が高い地域の住民が避難している。ウチの商圏の20~30人の人がいなくなることは、死活問題」と。田んぼで稲ワラを縛る作業をしていたかたは、「原発でさんざんな思いをさせられている。全面賠償はあたりまえだが、私らだけの声では足りない。ぜひがんばってほしい」と。

三和町ではおもに国道49号線沿いでしたが、大型トラックの運転手や他県ナンバーの車を含め、手を振ってくれたりクラクションを鳴らしてくれたり、すぐ前の家から拍手されたり、ものすごく励まされました。

「共産党なら」/街頭から/「根底からくつがえされた」

月曜日朝は自宅近くでの2か所の定時定点。最初の場所で、終えるころに近所のかたが出てきてくれて、「罹災判定に不満があるが、共産党なら間違いなく話を聞いてくれると思った。役所に伝えてもらうだけでいいから」と。

こうした声は、実は毎日のように寄せられているのです。同じ市内なので、親族もいれば親しい友人もいます。「ウチが大規模半壊なのに、ウチよりたいへんで半壊認定はおかしい、と言われた」という話は連日です。なかには「補修に来てくれた業者さんから、これが一部損壊とはありえない、と言われた」というかたもいます。なにが原因なのでしょうか。

午前中はまた団地、住宅地、スーパー前など6か所の街頭から。団地のベランダに出て声援を送ってくれるかた、「流し」で話していたら玄関から出て「がんばってよ」と声をかけてくれるかた、スーパー前で手を振って行ってくれるかた、ほんとうにありがとうございます。

午後は私が住む住宅地で、党支部のみなさんと震災前にもたずねて歩いたみなさんをまたたずねました。やはりみなさんから、あの震災直後からのご苦労が語られます。

あるかたは、「原発に行ったこともあり、炉心の真上に立って、放射線量がゼロ。原発は安全なものだと信じきっていた。地震や津波でこんなことになることを共産党が言っていたことは知らなかった。自分の考えが根底からくつがえされた。共産党にがんばってもらうしかない」と。

またあるかたも、「民主党が再稼動を言う姿に驚いている。私たちは原発はいらない、と思っているのに。政治家を選ぶ有権者の責任が大きいことを思い知らされている」と。

政治的な雰囲気ががらりと変わっていることは、こうして話して歩かないと、なかなかわからない気がしています。

 

訪問/共産党がなければ…/雲の上の東電

午前、午後と、医療生協党支部のみなさんと日ごろお世話になっているかたがたを訪問して歩きました。

なかには、1967年の浜通り診療所設立のときからや、いまの場所に病院が引っ越す前から、それこそ親の代からの話をされるかたも複数いらっしゃり、びっくりしました。

当時から、医療機関づくりや生協づくりのために、共産党の人たちが走り回っていたことを語ってくれたのです。「共産党の人たちがいなければ、今のような病院もなかったし、自分たちが安心して通える環境もできなかった」と。これからいよいよがんばらねば、の思いです。

ある家庭では、息子さんのお嫁さんと子どもたち、娘さんが原発事故以来の避難で家族がバラバラに。息子さんは仕事があるので一人で市内に残り、週末には片道5時間かけて車で家族の避難先へ行っているとか。退職して避難先に引っ越すか、家族にもどってもらうか、いまだ先が見えない家族生活なんだそうです。

またあるかたは、仕事で東電にはお世話になっていた、と。「ただ、仕事の関係でも東電の人たちは、時間の約束などあってないようなもので、いくら待たせても、あやまることなどしない。雲の上に住んでいる人たちのようだった。事故後も反省しているようにはまったく見えない」と。

ともかく、原発が話題になると、「誰が福島に持ってきたの!?」「誰がぜったい安全だ、なんて言ったの!?」「原発はもういらない!」「原発のない日本にしたい」と。

小雨の街宣/裏切りと出会い/市田演説会/市漁協

小雨のなかでしたが、午前中、きのうに引き続き、平市街地と2つの団地内の5か所の街頭から訴えました。

通っていく車から手を振って行ってくれるかたが多いことには、ほんとうに励まされます。医院の処置室の窓際で聞いてくれる職員もいました。

住宅団地では、雨が強くないとはいえ、傘もささずにずっと聞いてくれ、終えると手を振ってくれるかた。ごあいさつに行くと、「民主党に政治を変えることをほんとうに期待して投票していた。もうぜったい投票しない。自民党より悪くなった。共産党を応援する。ぜひがんばってほしい」と、切々なる訴え。

政権交代劇と民主党の裏切りがあっての劇的出会いというほかありません。何度かここでお話しして初めて出てきていただいたのです。

午後は宮川さんと私のそれぞれの選挙地域で、市田忠義党書記局長が弁士をつとめた街頭演説会。雨のなか、多くのみなさんに足を運んでいただいて感激です。

夕刻には、演説会にも来ていただいたいわき市漁協の役員のみなさんと懇談。渡辺ひろゆき市議の尽力です。

座布団を取り合う自民と民主の国盗り合戦にはあきれている、復興第一に、住民の暮らしを守ることを考えてほしい、漁師には、これからと将来の暮らしの見通しが持てるメッセージがほしい、と組合長さん。

市田さんは、第三次補正予算を待つことなく、あらゆる場で政府に求めたい、と応じました。

 

 

きょうの演説原稿

ご紹介をいただきましたはせべあつしです。

あるかたから先日、こう言われました。「原発事故後のこの県議選で、共産党がいわきで2議席獲得できれば、今回の県議選の象徴になる。今回ばかりは、思想・信条を脇において、ぜひ応援したい」。

みなさん、今回の県議選はまさに、「原発なくせ」のこうした声を世界に発信する選挙です。今度こそ、2議席を必ず勝ち取れるよう、みなさんのお力添えを最初にお願いいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

あの3月11日の翌日から、私は津波被災地を回り、ガレキのなかを歩く地元のみなさんからの声を聞いて歩きました。3月12日に小名浜で津波に襲われた古湊のガレキの間を車で歩いていたら、向こうに高齢のご夫妻が歩いていました。だんなさんが足をふらつかせ、お連れ合いがそのだんなさんを支えながら、私を呼ぶのです。病院に連れて行ってほしい、ということでした。土曜日の午後でもあり、行きつけの医院はしまっていました。そこで小名浜生協病院へお連れして事なきを得たのですが、2日後にご自宅を見舞ったら、すっかり元気になられ、大変に感謝されました。あの震災後の私の活動はここから始まりました。

そして原発事故があり、行く先ざきで訴えられたのは、「放射能の影響はどうなんだろうか」「原発事故は収束するんだろうか」、そして「もう原発はなくしてほしい。共産党だけが言ってくれていたことだ」ということでした。この訴えは、7か月たった今に至って、ますます強くなっています。

私は6年前の現職時、今回の事態を予言したわけではありませんが、本会議場でこう訴えました。「大地震や大津波があったときに、原発が大事故を起こして大量の放射性物質を外部にまき散らすことで、地震災害と大規模放射能災害とが増幅し合う、人類未体験の破局的災害はなんとしても避けなければなりません」。

あってはならない、と強く訴えたわけですが、この訴えは無視され、言ったことが現実となってしまいました。そのうえ、議席を失い、事故を防げなかったことは、まったくの無念であり、悔しさでいっぱいです。

国や東電にはっきりとものを言い、再び県政に出て、もっとみなさんの力になる決意です。どうぞよろしくお願いいたします。

私たちの子どもたち、そして子孫に同じ思いをさせてはなりません。

こうした事態を前に、いわき市民、福島県民ばかりでなく、多くの国民が「もう、原発はなくしてほしい」と強く願っています。国の原子力委員会の発表でも、なんと98%の国民が「原発からの撤退」を望んでいます。

にもかかわらず、民主党の野田政権はこうした国民の声をまったく無視する姿勢が露骨です。

原発事故の原因も究明されておらず、事故の収束も不透明のまま、まして、まともな規制機関がないまま、原発の再稼動などはありえません。

福島の原発はすべて廃炉にすべきです。そして日本の原発は、期限を区切ってゼロにすべきです。

どうぞみなさん、原発をこの福島から、この日本からなくしてほしいという願い、原発事故によるあらゆる被害について、勝手な線引きをせず、東電と国の責任で全面賠償させようという願い、まき散らされた放射性物質による放射能汚染の実態を、国と行政の責任できめ細かく測定し、迅速な除染を進め、なにより、子どもたちが安心して遊び、学び、暮らし、育つことができる環境を整えてほしいという願いを、私、はせべあつしに託してください。

住み続けられる新たなまちづくりへ、ごいっしょにがんばりましょう。

そのためにも、なんとしても私の議席回復へ力をお貸しください。

どうぞよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

6方向から会釈/14か所の街頭から/事故後の期待

金曜日朝は神谷(かべや)地域の国道6号線沿いの旧道入口。ここもまた、6方向からの出勤のみなさんが行き交う場所です。運転席から会釈されていく姿がたいへん目立ちます。

午前、午後と平市街地や団地・住宅地など14か所の街頭から訴えました。移動中は、あしたの街頭演説会案内の「流し」をしていたのですが、声をかけてくれたり、手を振って行ってくれるかたの多いこと。

それぞれの街頭でも、ドリンクの差し入れを持ってきていただくかた、駐車場で最後まで聞いて拍手してくれるかた、歩道で立ち止まってやはり拍手していただくかた、店から出て声援を送ってくれる店主のかた、商店街を歩いていて「がんばって」と声をかけてくれるかた。

夕刻には、私が住む住宅地の後援会員と、医療生協でお世話になっているみなさんをたずねました。震災前にもまわってはいたのですが、原発事故後のいまは、以前にもまして強い期待を感じます。

かけはし/「冬支度」/真剣な思いを託す

私と宮川さんの通信「かけはし」の今月号をご近所240軒ほどに配布しました。

ご近所とはいえ、初めてお会いして話をかわすかたもいらっしゃいます。「いつもありがとうございます。状況は一変しましたね。ぜひがんばってください」と声をかけられました。若いお母さんです。こうした声が広がっていることを実感しています。

検診の予約をし、ペロの食料を調達し、本屋に寄り、家では新聞の切り抜き・処分の作業をしました。ホームセンターは「冬支度」です。

3日前に掲載した文字ばかりの写真は、6年前の「福島県議会定例会会議録」、要するに議事録です。福島県議会ホームページからもアクセスできます。

「大地震や大津波があったときに、原発が大事故を起こして大量の放射性物質を外部にまき散らす」と6年前に指摘していたことは、この間の訪問でも、たいへんに驚かれます。

あってはならないから言ったのですが、現実になってしまったのです。言った本人としては無念なのですが、憤りとともに複雑な心境です。

こんな体験を子孫にさせるわけにいきません。「原発はいらない」、この声を、いちばん強く発信できるのは福島県民であり、その機会が県議会議員選挙です。

これまで原発を推進しながら、「反省しますからまたよろしく」「自然エネルギーを勉強しましたからよろしく」「国策に口をはさむなと言った姿勢をあらためるからよろしく」といった人たちに、私たちの真剣な思いは託せないと私は思います。

水曜定時/街宣・訪問・署名/白水の小集会/生まれ育った地域ならでは

水曜日朝は週に1回のJR常磐線北側での定時定点。近くに工業団地がある関係とはいえ、震災前は、「派遣切り」「リストラ」のまっただなかの影響で、交通量が以前よりずっと減っていたのですが、震災後のここ数か月の交通量はずっと増えています。その要因は、私もまだよくわかりません。

きょうは内郷(うちごう)・好間(よしま)地域の党と後援会のいっせい行動。私は高坂町地域で街宣と訪問と署名行動。

街宣場所では近くの複数の事業所から出てきてずっと聞いてくれる人がいたり、車で通っていく人たちからの手を振っての声援がやたらと多かったり、ほんとうにびっくりするぐらいでした。

ある公園では、子どもたちといっしょの若いお父さんやお母さんがいたので、「放射能から子どもたちを守る署名」をお願いしました。

午後は内郷の白水地域で小集会。福島原発事故が明らかにしたことと、放射線と人体影響について話しました。「原発の放射性廃棄物の最終処分場は?」「放射能で汚染されたガレキの処分は?」「除染後の海の汚染や、はきとった土からの汚染は?」「いわきの農産物への影響は?」と、いつでもどこでも出される疑問が次つぎと出されました。

その後また、内郷後援会員とかつての炭鉱商店街を訪問。「娘とあんたが中学校でいっしょの学年だったよ」「ここに来る前にはいつもウチに寄ってくれていたんだよ」「あなたが小さいころから知っている友だちがいっぱいいて、話題にしている」「民主党議員が地元だが、切り崩してがんばってほしい」と、私が生まれ育った地域ならではの、いろんな話と激励を受けました。

小名浜定時/震災前とは一変/「カウンターに置かせてもらう」

平日朝の火曜日は小名浜での定時定点。きょうもまた、散歩されるかた、車で小名浜港方面、その反対の平方面へ向かうかたがたからの声援に力づけられます。

午前中は、震災前にもたずねていた医療生協ニュースを配布していただいている党後援会員を訪問。

震災前とはあたりまえですが状況は一変です。「3世代世帯で大規模半壊認定され、補修してもらう間だけでも引っ越したいのに、ぜんぜん見つからない。地盤が沈んで家が傾いているのに半壊というのも納得できない」と。

一人暮らしのある高齢女性宅は、3月と4月の地震後にたずね、罹災証明申請をいっしょにしたり、包括支援センターに相談に行ったりしていたのでした。センターの職員がその後訪問してくれたり、民生委員が様子を聞きにくれたりしてくれたらしく、えらく感謝されてしまいました。

ともかくたずねた先ざきで、「原発ばっかりはもういらない。再稼動しか言えない民主党政権にはがっかりどころか、怒り心頭だ」と、まぁ、当然の怒りです。

午後も党後援会員と、小名浜や隣りの鹿島地域のお知り合い宅を訪問。ある事業所の社長は、「選挙は有権者の義務だが、今度ばかりは投票しないことが義務じゃないかと思わざるをえない。しかし、そうじゃない。共産党は間違いなくわれわれの声を代弁してくれている。カウンターに宣伝物を置かせてもらう」と。

やはり震災前にたずねていて、お客さん2人とご夫妻との4人で「なんだかんだと言って共産党しかまともな政党はない」と盛り上がっていた床屋さん。私の6年前の県議会での質問で、大地震と大津波と原発事故が重なって、放射性物質がまき散らされる人類未体験の破局的災害はぜったいさけるべき、と言っていたことを記したりーフを見て、目がまんまる。「店に置いてお客さんにも言うから」と。