議会委員会で政府要望/井上参院議員

県議会の企画環境常任委員会の委員全員で、福島県の復興・再生へ国が総力をあげてとりくむよう、政府要望しました。

【柳澤光美経産省副大臣】

文部科学省では神本美恵子大臣政務官、経済産業省では柳澤光美副大臣、環境省では審議官、昼休みをはさんで、復興庁では吉田泉副大臣、そして首相官邸では齋藤剄官房副長官が対応。

【齋藤剄官房副長官】

復興再生基本方針に基づく施策の確実な実施、原発の安全確保、除染の推進、賠償の完全実施、再生可能エネルギー「先駆けの地」の実現、避難地域全体のグランドデザインの提示、などについてそれぞれ要望、意見交換しました。

【井上さとし参議院議員】

昼休みから午後の要望活動までの少しの時間、参院議員会館に寄り、大学時代に4年間お世話になり、いっしょに活動した井上さとし議員をたずねました。

昨年被災直後の5月3・4日にいわきの被災地に来てもらい、11月3日の「2度目の事務所開き」で応援してもらって以来の再会でした。

あしたから3日間、県議会の「子育て・健康・医療対策特別委員会」で広島・兵庫・奈良を視察でまわってきます。

高橋あき子事務所開き/市民の意志

私が住む地域が「活動地域」の高橋あき子市議の事務所開きがありました。私はあき子選挙対策責任者をつとめています。

今月8日には、いわき駅北側地域といわき沿岸の小名浜地域などを活動地域にするわたなべ博之市議、15日には勿来(なこそ)・遠野(とおの)地域などを中心にする伊藤ひろゆき市議が事務所開き。

そしてきょうは高橋市議と、常磐(じょうばん)・内郷(うちごう)地域を中心にするみぞぐち民子市議が事務所開き。

いわき北部党後援会会長で元県議の伊東達也さん、衆院福島5区予定候補でいわき・双葉地区党副委員長の吉田英策さんのあいさつに続き、あき子さんの隣組、「風評被害」に苦しむ農家、津波で家を流された薄磯地域のかた、保育士が、それそれの立場で昨年震災以降のあき子さんの姿に触れながら、心に響く激励の言葉。感動です。

私は「閉会のことば」で、6日前の「代々木公園10万人集会」の様子を伝える「しんぶん赤旗」号外を紹介し、この国民の意思を示せないいわき市議会のままではならないこと、消費税増税・社会保障削減・TPP参加・オスプレイ配備は許さない! のいわき市民としての意志を示そう、と訴えました。

たいへんさを体感/宣伝/高橋あき子市議/隣組

何度か目覚めるのですが、けっきょく起きた時間は午前8時。4日前までの10日間のこの時間は午前1時。朝の時間を2週間前にもどすのは、なかなかたいへんなことを体感しています。

毎月第3土曜は「憲法街宣」の日。いつもの場所できょうは1人だったので、私個人と市議選でのご支援を訴える宣伝デーに切り替えました。

午後は高橋あき子市議と私の地元で「つどい」。9月市議選でなにが問われるかを意見交換です。

夕刻は隣組有志による懇親会。たまたまですが、昨年の県議選後に始まった場です。きょうはこれまたたまたま定年退職したかたの慰労会でもありました。こんな楽しい機会はなかなかないです。

小名浜地域決起/わたなべ市議/生活テンポ

9月9日投票が決まっているいわき市議会議員選挙。

きょうは、わたなべ博之小名浜地域後援会決起集会に参加しました。

昨年の3・11の津波で、9割の世帯が流された薄磯(うすいそ)地区の区長さんも駆けつけてくれました。

あの直後、わたなべ市議はこの地区にいち早く駆けつけ、地区役員の要望を聞き、トイレや地区の事務所になるプレハブの調達のために走り回ったのです。

「民主党も自民党もいらない。共産党だけがあればいい」。この言葉を発する区長さんの思い。なんとしても応えなければなりません。

午前中の早い時間、ペロを連れて散歩です。時差による生活テンポのズレ感覚をもとにもどしました。

海外視察番外

10日のキエフ市内の朝早く、近くの広い歩道を散歩していると、スズメやハトの声はやはりどこも同じ。

広い道路わきの歩道には、どこでも清掃員が作業する姿を見かけました。キエフだけでなく、ゴメリでもミンスクでも。

チェルノブイリ原発へ向かう途中には、あちこちにコウノトリの巣。ベラルーシでも見かけました。けっこう高速で走るバスの車窓からなので、記録はたいへん。

朝、公園をジョギングする姿も見かけました。これはキエフ市内。

ミンスクでの夕食会場ではジャズピアニストと少し仲良くなりました。

15日は日曜日で、ドイツではアウトバーン(高速道路)を走る大型トラックは通行規制のため、どこのサービスエリアも大型トラックでいっぱい。土曜の夕刻から休むのが当たり前だそうです。

また、商店街・デパート・スーパーマーケットも日曜は休み。家族・夫婦・親族で休暇を楽しむ日だからだそうです。外食の機会も多いので、レストランは営業です。

15日の午後から通訳をしてくれた前田成子(しげこ)さん。フライブルグ市公認講師として日本でも講演活動をしています。

帰国の途/夏時間

全行程を終え、7月17日朝9時にはホテルを出て、お昼前にフランクフルト空港を飛び立つ飛行機で帰国の途へ。

こちらのお昼は日本の午後7時。そのつもりで構えましたが、搭乗してから2時間後(日本時間午後9時ごろ)には昼食の機内食、それから日本時間の午前4時前ごろには、朝食。ましてずっと座った姿勢で、睡眠も2時間ぐらい。

今回はソ連崩壊後に独立したウクライナとベラルーシ両国、そしてドイツをおとずれましたが、どこも夜が長い!

ウクライナからベラルーシへ移動した11日は、午後9時にはまだバスで移動中でしたが、そろそろ夕暮れ、といった感じ。

ドイツのフライブルグ市内で夕食を終えた午後9時ごろもやはり夕暮れ時。

どちらも「夏時間」でしたが、夏時間採用期間がほぼ7か月間。1時間、時間が早まります。

いろいろと学ぶことが多い機会でした。

フライブルグ市/バーデン・ヴュルテンベルグ州

宿泊しているフライブルグ市の環境保全局をたずね、「環境の首都」といわれる市の政策を、市長代理の環境保全局長から聞きました。

チェルノブイリ事故があった1986年当時、原発依存度は60%でしたが,いまは4%程度。逆に再生可能エネルギーは3%(93年)から50%を超えるまでになっています。

「脱原発が、一般の人びとの関心として下から噴き出した」こと、市として「環境経済化」をはかること、そのための「効率のよい技術開発、人材養成」を進め、「一極集中」ではない、「職場づくりができる多角経営」を官民一体で進めています。

きょうのメインではありませんでしたが、その考え方は、公共交通機関として「路面電車」を位置づけ、「パーク・アンド・ライド」の手法で街中の車の交通量を規制する行政にも現れています。

午後は、シュツットガルト市へ行き、バーデン・ヴュルテンベルグ州の環境省(環境・気候・エネルギー管理省)をたずねました。

「政府の合意を求めながら、ドイツとして何ができるか」を追い求める姿勢には感心です。

夕刻には、在フランクフルト総領事公邸をたずね、重森豊英(しげもり・とよえい)総領事ご夫妻、伊藤麻裕(まゆ)副領事と懇談をかねた夕食。

カールスルーエ市/ゴミをエネルギーへ/ブライトナウ村

ドイツ訪問の目的は、再生可能エネルギー普及に国・自治体・住民がそれぞれ主体的にどうかかわっているかを調査することです。

最初にたずねたのは、カールスルーエ市内の「ゴミの丘」を「エネルギーの丘」に変えた現場。

ドイツ在住16年で、ジャーナリストの松田雅央(まさひろ)さんが案内してくれました。

簡単に言ってしまうと、ゴミ埋立地の上に風力発電施設を作り、埋立地の斜面は太陽光発電に活用し、ゴミから発生するメタンガスの熱も活用する、というものです。

カールスルーエ市では、風力発電の8割が市民の出資で、市民一人ひとりがエネルギー事業者という発想です。

その後、人口が2000人ほどのブライトナウ村へ行き、ジョセフ村長の案内で村内を回り、水力発電業者のカイザーさんの話を聞いたり、村長自身が力を入れるバイオマスの現場を歩きました。

いまこの村は、電力需要の170%がバイオだそうです。住民参加型がカギのようです。

来年がどうなっているか、ぜひ見に来てほしい、と訴えられました。

原発事故作業者/移動日/ドイツへ

きょうからは、2班に分かれ、私たち9人はB班で、ドイツへ向かいます。

出発前、A班がチェルノブイリ原発直後の作業労働者の話を宿泊しているホテルを会場に聞いていたので、私も短時間、参加しました。

その後は、ホテルからバスでミンスク空港へ行き、空路、ドイツのフランクフルト空港へ行き、バスでマンハイムのホテルに到着したのが午後6時前でした。

ドイツでのバス添乗員は神戸出身のBECK AYUMI(ベック・アユミ)さん。

ドイツに住んで20年、ツアーガイドの仕事で、立て板に水を流すごとき話に聞き入ってしまいました。

国家非常事態省/情報センター/小児がんセンター/臨時代理大使

ベラルーシ国内で、ゴメリからミンスクへまたきのうのうちに移動。約6時間弱。

午前中にベラルーシ国家非常事態省、ロシア・ベラルーシ情報センター、午後に小児がんセンターをおとずれました。

非常事態省は、すべての省庁を統括する機関で、旧ソ連時代の内務省内にその前身組織があり、91年の独立時に省として独立したようです。

ともかくベラルーシの場合、州政府、日本の市町村のようなものがあっても、国家の政府を頂点にすべてタテでつながっていて、地方自治という考えはないので、なかなか理解が難しいです。

情報センターは、きのうたずねた放射線学研究所の支所のような位置づけで、事故後の経験・蓄積を集積し、住民だけでなく国に対しても正しく客観的な情報を提供し、なにより、原発事故の記憶をなくさないことを強調していました。

200ベッドを持つ小児がんセンターは、正確には小児腫瘍学・血液学センターというそうですが、原発事故が原因の疾病の実態は、またまだこれからのように感じます。

夕刻には、三森重弘ベラルーシ臨時代理大使との懇談をかねた夕食会でした。