福祉と平和は不可分

 現在の「医療崩壊」「介護崩壊」を招いたのは、直接的には小泉内閣以降、2002年度から社会保障予算を毎年2200億円縮減し続けた構造改革政治です。
 この構造改革は、1980年代前半から続けられた医療費抑制政策の仕上げの位置づけでした。

 四半世紀にわたる自民党主導の社会保障軽視政策がいまの事態を招いたのです。
 
 憲法25条は、国民が国に対して、社会保障の「向上及び増進」に努めることを命じています。

 しかし自民党は、医療費抑制政策をこの憲法の上に置いたのです。

 ですから、これを転換させる最大のポイントは、憲法を政治姿勢の根幹におき、社会保障再生を図ることだと思います。
 
 社会保障費2200億円削減計画の撤回、後期高齢者医療制度や障害者自立支援法の廃止、生活保護母子加算の復活などを民主党は公約にかかげました。

 こうした政策はただちに実現させなくてはなりません。

 私が不思議に思うのは、こうした社会保障政策をかかげる根拠として、憲法25条にまったくふれていないことです。

 たとえば、憲法25条を根拠に障害者自立支援法を廃止するならば、同じような介護保険法を抜本改正するのが筋なのに、それにはふれていません。

 後期高齢者医療制度を廃止する、と公約しながら、ただちにはできない、と言い出すのも、廃止の根拠を持たないからだと思います。
 
 同じように民主党の外交分野の政権公約に憲法9条はまったく出てきません。

 現行憲法は、日本を平和・福祉国家とすることで戦争や貧しさから「免かれ」、その国家の使命は「平和のうちに生存する権利」を保障すること (前文)、としています。

 すなわち、9条の平和理念と25条の福祉理念とが不可分な関係にあることを明確にしているのが日本の憲法です。

 鳩山首相、岡田外相、前原国交相、小沢幹事長はいずれも民主党の代表を務めた人びとです。そして残らず、憲法9条改憲の立場を公言してきた人びとです。

 どうも私には、社会保障再生の根拠に憲法25条を言えない理由は、ここらにあるような気がします。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№12     

 民主主義というのは、つまるところ、「手づくりの精神」です。「ものごとを自分たちの手でつくる」、ということでしょう。
 憲法第13条の「幸福追求に対する国民の権利」は、その精神をもっともよくあらわしています(№8 参照)。幸福は外から自然にやってこないので、いろいろな困難、悲しみ、つまずきを乗りこえて幸福をつかみとる、たたかう精神を国民はもつように、憲法は要請しています。

 憲法第12条が「国民の不断の努力」と念押ししているのも、国民の主体的努力が重要だからにほかなりません(№11参照)

 国民主権は、民主主義のこの精神を政治制度にあてはめたものです(憲法前文、第1条)。ただの「国民のための政治」ではだめで、「国民による政治」が民主主義の原則です。

 そうすると国民は、一人ひとりが政治の主人公なので、「政治的中立」ということはありえません。AとBという人が争っていて、その争いに関係ない第三者のCという人を「中立」とはいいますが、政治についてはすべての国民が当事者なので、第三者というのはありえないのです。

 国民がだれでも憲法上の権利を行使し、政治活動するのは常識である、というのが、日本国憲法の立場です。私たち自身が今、現行憲法をしっかりと選びなおすときだと思います。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№11      

 現在の日本国憲法は、「人権」についてこんなふうに考えています。

   
    「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(97条)であり、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられ」(11条)たものであって、「主権の存する日本国民」(1条)である私たちの「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(12条)。

 国民自身のたゆまぬ努力がなければ、人権は守れない、権力は人権を侵しますよ、と憲法自身が語っています。

 1947年教育基本法と憲法との関係を断ち切り、教育の場から内心の自由や教育の自由や学問の自由や幸福追求の権利を侵害するしくみをつくるなど、そのさいたるものです。

 高齢社会が進み、医学が進歩するのに応じ、社会保障を「向上及び増進」させる責任を果たさないどころか、「お金がない」ことを理由にお金は別のところに使い、年寄りは社会の邪魔だといわんばかりに、医療も介護も「低下及び減退」させることもしかりです。

 海外へ兵力を提供するために憲法を変えるのではなく、現行憲法を政府に全面実践させる時代ではないでしょうか。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№10      

日本国憲法第26条。「①すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。
 「教育を受ける権利」の明文規定は、資本主義諸国の憲法では日本が最初です。フランス革命期以来の「権利としての教育」確立へ向けた「さきがけ」と評価されるゆえんです。

 「権利としての教育」ですから、憲法の基本的人権の規定と重ね合わせて読むことが大事です。そうすると教育は、幸福追求の権利(13条)、思想・良心の自由(19条)、信教の自由・政教分離原則(20条)、表現の自由(21条)、学問の自由(23条)、法の下の平等(14条)などと不可分一体です。

 憲法は平和国家・福祉国家をめざしていますから、将来の国家・社会の「形成者」を育てる教育は、9条・25条とももちろん不可分です。

 こうして本来、教育にかかわる基本法と憲法とは一体です。しかし安倍内閣で強行された現行教育基本法は、第2条で子どもと国民に「我が国…を愛する」心を法律で強制したり、第16条で、教育の自主性や教育の自由の上に政治的多数をおいて、時の政府の思いのままに教育を統制・支配できるしくみをつくりました。

 憲法のこころを入れ込んだ基本法を取り戻さないとなりません。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№9      

日本国憲法第24条。「①婚姻は、両性の合意にのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。
 これを生みだす力になったのは、GHQ民政部職員で、当時22歳のベアテ・シロタ・ゴードンさんが起草した「婚姻と家族とは…男性の支配ではなく両性の協力に基づくべき」とした条文でした(ベアテ・シロタ草案第18条)。

 「男性支配の否定」の精神は24条に生きています。女性による男性へのDV(ドメスティック・バイオレンス)がないわけではありませんが、「男性支配の否定」がまずもって「男性の家庭内暴力」の否定を意味することは明らかです。

 わが憲法は、近代社会が残した二つの「正統な暴力」である私的暴力=DVと公的暴力=軍隊を禁止したのです。つまり日本国憲法は、社会全体を非暴力化するためのプロジェクトだ、ということがわかります。

 この人類史的プロジェクトを中途で放棄してはならないのです。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№8      

日本国憲法第13条。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。  

 
 書き出しの一文は、日本国憲法の条文でいちばん大切な一か条だ、という人がいるぐらい大事な条文です。なぜかと言えば、「全体としての国民」あるいは「主権者としての国民」が、みんなであることを決めるとしても、一人ひとりの「個人」を尊重する原則を侵してはならない、と言っているからです。

 もちろんこの場合、自分のことしか考えない「利己主義」は論外で、「社会的に生きている個人」が前提です。「個人主義」とは何か、という話になりそうですが、ここらはおおいに議論すればいいと思います。日本国憲法はふところが深いんです。

 その次の一文があることで、13条を「ドラえもんのポケット」という人もいます。つまり、人間として生きるために不可欠な権利であるかぎり、この条文によっていろんな道具が引っ張り出せる、というわけです。

 たとえば、「プライバシーの権利」、「環境権」、「日照権」、「静謐(せいひつ)権」、「眺望権」、「入浜(いりはま)権」、「嫌煙権」、「健康権」、「情報権」、「アクセス権」、「平和的生存権」などです。

 13条は、国民の不断の努力によって、こうして憲法自身を豊かにしてきた歴史があります。それなのに「新しい権利を憲法に書き込め」と言う意図は、別なところにありそうです。

「日本国憲法」ってなんだったっけ? 09年版・№7      

日本国憲法第25条。「①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 ②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。   

 第一項は、国民の文化的最低限度の生活権を権利として明記した人権宣言です。

 第二項は、一項の権利に対応した国の責務を定めています。

 人間らしい生活を営むことを、万人の権利と宣言した点に特筆すべき意義がある、といわれる条文です。連合国軍総司令部のマッカーサー草案にはなく、衆議院の審議で入れられました。ちなみに、1945年12月、鈴木安蔵らの憲法研究会では「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」という条文を用意していました。

 ここで目を向けておきたいのは、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と言っている憲法前文。「恐怖」とは、専制・暴虐・抑圧・暴力、何よりも戦争の恐怖、「欠乏」とは、餓え・渇き、病い、衰弱、極貧など、要するに貧しさ。平和・福祉国家の実現によってこれらから「免かれ」、その国家の使命は「平和のうちに生存する権利」を保障すること、ということです。

 前文が示していることは、第9条の平和理念と第25条の福祉理念は不可分な関係にある、ということではないでしょうか。9条改憲に固執する民主党に、25条を社会保障再生の根拠にする姿勢が見えないことと関係ありそうです。