民意が反映する制度に―「かけはし」1月号

121224ハタ・小選挙区

 

総選挙での自民党の「大勝」には、自民党県議ですら、「期待もされなかったのに、議席の取りすぎだ」と言うほどです。

衆議院の定数は480人で、そのうち300人は小選挙区です。自民党が得た294議席のうち、8割の237議席は小選挙区です。ここにからくりがあります。

全国的に見ると、自民党の小選挙区での得票率は43%です。これは、全有権者数の25%です。33%の人は自民党以外の候補者に入れ、43%は投票しませんでした。

121224ハタ・全有権者比得票

比例代表では自民党はもっと少なく、全有権者比で16%、自民以外は42%。そして42%が投票しませんでした。

有権者の4~6人に1人が自民党に入れたことは間違いありませんが、議席率が8割というのは「虚構の多数」です。

「虚構の多数」によって、原発再稼働が進められたり、消費税増税が強行されたり、まして国防軍や集団的自衛権の行使を認めるなど、もってのほかと言うほかにありません。

仮に、衆院総定数を各党の比例得票率で配分すると、自民党は133議席であり、「虚構の多数」の半分以下です。共産党は29議席です。実際は8議席ですから、3割を切っています。

こうして小選挙区制度は、民意を削りとって「虚構の多数」を生み出す制度ですから、見直しは当然です。

121224ハタ・比例按分

小選挙区をなくし、現行の全国11ブロックごとの比例代表選挙にすることが最も民意を反映できます。

また、3~5人区の中選挙区制にすることも、民意を保証する改善につながり得ます。

なお、グラフ資料は12月24日付けの「しんぶん赤旗」掲載のものです。

「一体改革」の経過と正体

「社会保障と税の一体改革」は、なにも野田政権になって突然出てきたわけではありません。

自公政権時代の福田内閣が08年1月に設置した「社会保障国民会議」で打ち出され、麻生内閣が09年4月に設置した「安心社会実現会議」で継承され、政権交代後、菅内閣のもとで10年10月に立ち上げた「政府与党社会保障改革検討本部」がふたたび拾い上げ、11年1月の内閣改造で与謝野馨氏を入閣させ、「社会保障改革に関する集中検討会議」を設置して、消費税引き上げに突っ走る体制を整えていたのでした。

自公政権時代は、それまでの「小泉構造改革」があまりにひどく、非正規雇用の増大、ワーキングプア層の激増で、そのまま構造改革を続けると、政権の不安定化を招き、構造改革政治を進められないと判断し、社会保障的施策も発動し、社会保障支出と消費税増税をワンセットにし、構造改革政治を続行させることがねらいでした。


【「吉田泉2012.1月 国会だより」より】

そのつもりが民主党にもあったことは、民主党「税と社会保障の抜本改革調査会『中間整理』」(10年12月)が社会保障を「切り下げるという選択肢は断固として排除」と言っていることでもわかります。

そして大震災。

政府の復興構想会議で、復興財源に消費税をあてる議論が先行し始めると、社会保障のために消費税増税を、とする「集中検討会議」の思惑は危うくなり、消費税引き上げ分を社会保障関係で独占することを正当化するには、社会保障費用もいっそう「身を切る」方向に転じたわけです。

そういうわけで2011年6月30日の「社会保障・税の一体改革成案」は、「社会保障の安定財源確保と財政再建の一体改革」、要するに、社会保障の強化はしりぞくどころか後退させ、消費税増税だけになったわけです。

しかもごていねいに、というか「まことに寛容にも」、法人税率引き下げも明記されました。

自公政権時代の財界の野望を、民主党政権になって、表向きも中身も、庶民をいっそう痛みつける形で実現させようというわけです。

(『新たな福祉国家を展望する』26㌻~32㌻を参照しました)

世界と全国注視の福島県議選

11月20日投票で行なわれる福島県議選は、世界から注目されることは間違いありません。世界を震撼させた事故を起こした原発立地県の選挙だからです。

「原発はいらない」「原発事故によるあらゆる被害の全面賠償を」「放射能汚染から子どもと住民を守れ」の声を全国へ、世界へ発信する大事な選挙です。

こうした声を無視するかのような民主党政権への審判ともなります。

野田首相は、9月13日の所信表明演説で、「『脱原発』と『推進』という二項対立で捉えるのは不毛」として「再稼動を進めます」と明言しました。

9月21日付の米紙ウォール・ストリートジャーナルのインタビューで首相は、「来年の春以降、夏に向けて、再稼動できるものは再稼動していかなければならない」と表明。

これを受け、藤村修官房長官は22日、「関西電力は日本で一番原発依存度が高く、来年の夏ではなく2月を深刻に受け止めている」と、さらなる早期再稼動を首相に促す考えを明らかにしました。

そして26日の衆院予算委員会で、前原誠司民主党政調会長は「年内に再稼動させるという意思を内閣としてしっかり持っていただきたい」とたきつけました。

藤村氏と前原氏の言っていることは財界や電力会社の主張そのものです。

だいたい、政府が国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書でも、地震による原子炉の損傷は詳細が不明、と言わざるを得ず、事故原因の検証、究明すらまったくの途上です。

安全性について首相は「事業者が行なったテストを原子力安全・保安院が評価し、さらにその妥当性を原子力安全委員会が確認」すると言いました。

黒塗り資料、「やらせ」、「情報隠し」の3人組が安全を担保できるはずがありません。

事故原因も究明されず、まともな規制機関もないままでの再稼動などありえません。

原発ゼロの日本にする政治的決断を国にせまる選挙にしましょう!

高い電気料金と原発コスト

日本の電気料金は「総括原価計算」で決まります。発電・送電・電力販売にかかわるすべての費用を含む原価の上に、電力会社の利潤を一定の比率で上乗せして料金が設定されます。

つまり、コストを大きくすれば、会社の利潤も大きくなるしくみです。

電力会社はある時期のある時間内に生じる電力消費のピーク時を超える供給設備を抱えています。この過剰な設備の分も電気料金に組み込まれています。

しかも、電気を大量消費する特別高圧の需要家は安く、電圧を何度も下げて送られてコスト高の一般家庭は高く設定されています。

この高い電気料金と原発を受け入れさせる手段が「原発は安い」という宣伝でした。

すなわち、政府が公表した2004年の最新の発電コスト試算は、水力が㌔㍗時あたり11・9円、石油火力10・7円、石炭火力6・2円、液化天然ガス5・7円に対し、原子力は5・3円で最も安い、というわけです。

これがまったくの虚構であることを明らかにしたのが大島堅一立命館大学教授です。

すなわち、国の試算では、①01年以降、原発の稼働率が80%を超えることはないのに、40年間80%の稼働率と仮定しており、②国家財政からの技術開発費、立地対策費の投入をまったく考慮せず、③18・8兆円と見積もっているバックエンド費用(使用済み核燃料と放射性廃棄物の後始末)も、再処理工場は稼動の見込みもなければ、MOX使用済み燃料の再処理や処分費用がまったく含まれておらず、甘い想定です。

大島教授が、財政コストも考慮し、国民が支払った原発の実際のコストを1970~2007年度で試算したら、原発は最も高いのです。そのうえ今回の事故で、原発コストははるかに巨額であることが明らかです。

表はいずれも大島教授が作成したものです。

原発とカネと農村

原発の立地には基準が定められています(「原子炉立地審査指針」)。

①原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること②原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること③原子炉敷地は、人口密集地域からある距離だけ離れていること

要するに人があまり住んでいないところです。

立地させる手段はカネです。過疎化が進んで自律的な発展の見込みのうすい農村地域(原発立地の適地!) に、経済的・財政的利益をもたらそう、というわけです。

そのしくみが電源三法のシステムです。三法とは、「電源開発促進税法」「発電用施設周辺地域整備法」「電源開発促進対策特別会計法」です。1974年6月、田中角栄内閣によって導入されました。

電源開発促進税は電力会社に課税されますが、電力会社は電気料金に転嫁するので、負担するのは国民・消費者です。

その電促税は、国の一般会計を経てエネルギー対策特別会計電源開発促進勘定に組み入れられ、原発立地自治体や周辺自治体への交付金として支出されます。

当時の中曽根康弘通産相は、“立地地域の住民には非常に迷惑をかけるので、福祉を還元しなければバランスがとれない”といった趣旨の答弁をしています。

要するに、安全性への不安に対する迷惑料を、国民負担によって地元自治体に払い、原発推進政策を進めるしくみです。

図にみるように、交付金は原発の運転開始以前の段階で多く支給されます。

なおかつ、運転年数が30年を超えると原子力発電施設立地地域共生交付金が交付され、原発が古くなるほど交付金がふえるしくみです。「共生」を「強制」するわけです。

そのうえ、プルサーマルを実施する県には、核燃料サイクル交付金が交付されます。原子力推進のメニューを受け入れるほど交付金がふえるしくみです。

こうして原発は、国内に貧困な地域が存在しなければ造ることができない施設だったのです。沖縄の基地問題と構造がそっくりです。

(「しんぶん赤旗」7月15日付記事「自治体を原発に縛る」、清水修二著『原発になお地域の未来を託せるか』自治体研究社、を参照しました)

 

原子力安全委員会の罪/いわき市内の全体的傾向/きめ細かな情報を

放射能汚染がいったいいつまで続くのか、汚染の実態はいまどうなっているのか、すべての人の不安です。

原発事故の収束も不透明で、まったく予断ができません。

行く先ざきで、「どうしてもっときめ細かく放射線測定値を行政が示してくれないのか」という声はまったくもって当然の声であり、怒りです。

原因は明確です。日本では、原発から10km以上離れた地域では、被害はないから防災計画をつくる必要もないし、放射能にかかわる設備も専門家などの人材も必要ない、と国の原子力安全委員会が決めてしまっていたことです。ほんとうに罪なことです。

そのうえ、「公務員は税金のムダ」とばかりに、地方自治体の公務員がどんどん減らされてきたことは周知のことと思います。共産党以外の議員は「そうだ、そうだ」といって、賛成してきたはずです。そして、少なくとも都道府県議会では、共産党議員は有権者の支持をふやすことはできませんでした。

まっ、ともかく、私は、放射線測定値の全体的傾向がどうなっているかを知るために折れ線グラフを作ってみました。いわきの県合同庁舎駐車場の3月13日以降のその日のいちばん高い値をとったグラフです。

3月15日の午前4時に23.72μ㏜を記録し、その日はその後、1μ㏜台だったのが、翌16日の午前10時50分には18.78μ㏜となり、その後また低下し、朝から雨が降った21日の午前11時に6μ㏜を記録してからは、ずっと漸減し、いまは0.2を上回るかどうかの値です。

専門家の分析に基づいて、市民に知らせてほしいのですが、いまだそういう情報はありません。

こうした数値を、あまりに広すぎるいわき市内の各地域で、きめ細かに測定してちゃんと知らせることが行政の当然の仕事だと思います。

放射線の人体影響を考える材料として

勉強会で、参加者といっしょに、「放射能と人体影響」について考えるための材料として書いた資料です。これ以上、字数をふやせませんが、加除訂正を加えていきたいとは思っています。ご意見・ご批判を!

①  これまで、放射性物質が原発から漏れ出す事故は「ぜったいない」という「安全神話」のもとで原発がつくられ続けてきたので、私たち住民が原発・放射能・放射線障害・放射線防護について知る機会はありませんでした。

②  「放射線」を出す物質を「放射性物質」といい、放射性物質が放射線を出す性質を「放射能」といいます。

③  放射線のなにが問題かといって、原子から電子をはじき飛ばし、原子と原子の結びつきを不都合にしてDNAを切断し、その量が多いと細胞を死に至らしめることです(→急性障害・確定的影響)。あるいは細胞が突然変異を起こし、その蓄積が障害を引き起こすことです(→晩発性障害・確率的影響)

④  細胞の放射線感受性は、細胞が未分化なものほど、細胞分裂が盛んなものほど、細胞の一生のうち分裂期間が長いものほど高くなります。子どもが大人よりも放射線感受性が高い理由です。胎児がもっとも問題になります。

⑤  幸いなことに、生体には、切断されたDNAや細胞を元通りにする修復機能が備わっています。

 

⑥  もともと自然界から受けている放射線量は、日本人一人当たりの平均は年間1.5㍉㏜(1500μ㏜)で、これは外部被ばくと内部被ばくの合計です。世界では年間2.4㍉㏜です。

⑦  放射線を浴びることによる障害は、被ばく線量が大きいときにすぐに現われる急性障害、被ばく線量は小さくてもあとになって現われる晩発性障害があります。また、被ばく線量がある値を超えると必ず発生する確定的影響と、被ばく線量に比例して発生の確率が増加する確率的影響があります。

⑧  確定的影響として、1シーベルト(㏜、1000㍉㏜)で吐き気や嘔吐などの急性障害発生、4㏜(4000㍉㏜)で50%の人が死亡、7㏜(7000㍉㏜)で99%が死亡します。0.1㏜(100㍉㏜)以下では、人間についての直接的証拠はまだ十分ではありませんが、ガンや遺伝的影響は、低いレベルでも起こりうると考えられています。

⑨  放射線と人体へのこうした影響のもっとも貴重なデータは広島・長崎の原爆被爆者の調査資料です。今も、生存者についての健康への影響調査は続いています。

⑩  被爆者がたたかってきた放射線量はシーベルト(㏜)・ミリシーベルト(m㏜) の単位です。いま問題になっているのはマイクロシーベルト(μ㏜)の単位です。1㏜は1000㍉㏜、1㍉㏜は1000μ㏜です。桁(けた)が3桁ずつ違います。100万μ㏜が1㏜。

⑪  現在発表されている各地の放射線量は、「もともと自然界から受けている放射線量+原発から飛散した放射性物質が出す放射線量」の、体の外部から受ける一時間あたりの値です。

⑫  原発事故以前のいわき市内では、自然からの放射線量の平均は0.05μ㏜毎時です。

⑬  いま、仮に、屋外で観測された放射線量が0.5μ㏜毎時だとします(通常の10倍)。この数字の意味は、観測されたその場所に1時間、ずっといれば0.5μ㏜の放射線を浴びる(外部被ばく)ということです。これと同じだけの内部被ばく(口や鼻、皮膚の傷口、食物や水から体内に入った放射性物質による)をその1時間のうちに受けたとすれば、0.5+0.5=1μ㏜の被ばくとなります。

⑭  ⑬のときに、1日中ずっとその屋外にいれば1μ㏜×24時間=24μ㏜、1か月ずっといれば24×30日=720μ㏜=0.72㍉㏜を浴びることになります。

⑮  低レベルの放射線被ばくの影響ははっきりしていません。専門家の多くは、低い被ばく領域でも低いなりの確率で影響が起こりうる、と考えています。その目安は「100㍉㏜浴びると、ガンによる死亡の確率が0.5%ほど上昇する」という割合です。

⑯  ⑭の場合だと、0.5%×(0.72÷100)=0.00036%上昇する可能性があるとされます。また24時間365日、1μ㏜を浴び続けたとすると、1μ㏜×24時間×365日=8.76㍉㏜となり、0.5%×(8.76÷100)=0.0438%上昇する可能性があるとされます。

⑰  いわき市の統計では、悪性腫瘍による死亡者数は05年1026人(全死亡者数に対して28.3%)、06年1066人(29.4%)、07年1058人(28.2%)、08年1051人(26.7%)。

⑱  実際にはいま、いわき市内の観測値は0.2~0.3μ㏜毎時です。「注意して過ごす」、それとも「移住する」、どちらを選択しますか?

⑲  放射線は、自然からだろうと人工のものからだろうと、受けないにこしたことはありません。「放射性物質からできるだけ遠くに離れる」「放射線をできるだけさえぎる」「放射線にさらされている時間を短縮する」のが外部被ばくに対する防護3原則、「口と鼻からの吸入を防ぐ」「皮膚の傷口からの侵入を防ぐ」「放射能に汚染された飲食物をできるだけ摂取しない」のが内部被ばくに対する防護の原則です。

⑳  食品の暫定規制値は、汚染された食品を1日1㎏毎日食べても健康に害を及ぼさない(将来、ガンになる確率が200万分の1高くなる)量に設定されています。これを超えた食品を出荷停止にしているのは、内部被ばくによる健康被害を減らすためです。

「かけはし」6月号

「かけはし」6月号をご近所240軒ほどに配りました。

ペロといっしょで、ちょうど近所の小学校の下校時で、小学生たちにかわいがられ、満足な様子。

今回の「かけはし」のテーマは「福島原発は廃炉 原発はゼロに」。以下、その文章です。

原発には「止める」「冷やす」「閉じ込める」のシステムがある、放射能を閉じ込める「五重の壁」(ペレット・被覆菅・原子炉圧力容器・原子炉格納容器・原子炉建屋)がある、だから何があっても大丈夫、という「安全神話」は完全に崩壊しました。

原発事故で明らかになったことは、いまの原発技術は本質的に未完成で危険だ、ということです。

原発の運転を止めても、ウランから生まれた核分裂生成物は膨大な熱を出し続けます。だから絶えず冷やし続けなければなりません。そのための水が止まってしまい、核燃料の暴走が始まりました。

水が止まったのは、地震と津波の影響で電源がすべて失われたからです。発電所の中で電気が断たれたのです。

あらゆる場合を考えて、水が止まらないようにする技術の段階にはない、ということです。

さらに、核エネルギーを取り出す過程で生み出される大量の核分裂の生成物質を、原子炉内部に完全に閉じ込める技術の段階にないこともわかりました。

「冷やす」「閉じ込める」「五重の扉」は飛んで消えました。そして核分裂生成物質が飛散したわけです。

そのうえ、原発が生み出す使用済み核燃料を後始末するシステムも人間は開発できないでいます。

しかも今回、原発だけでなく、使用済み核燃料が核事故の発火点のひとつとなりました。

こうして、原発技術が未完成で危険であることが誰の目にもはっきりしたと思います。

今、政府が取るべき道は、福島原発の廃炉はもちろん、原発からの撤退を政治的に決断し、原発をゼロにする期限を決めたプログラムを作成することです。

そして、原発ゼロにいたる期間に、原発事故の危険を最小限のものとするために、原発推進の経済産業省から完全に独立し、強力な権限と体制をもった規制機関を緊急に確立することです。

そのための、国民的な討論と合意を広げなければならないと思います。

原発推進から撤退へ

17日に志位和夫委員長が菅直人首相あてに提出した「復興への希望がもてる施策、原発からの撤退をもとめる―大震災・原発災害にあたっての提言(第2次)」と、10日の不破哲三さんによる「古典教室」での講義を参考に、学習会用レジュメを作ってみました。

原発推進から撤退へ

一 福島原発事故で明らかになったこと

Ⅰ いまの原発技術が本質的に未完成で危険であること

①   軽水炉の構造上の本質的欠陥

核反応が止まっても、ウランから生まれた核分裂生成物が出し続ける崩壊熱を冷やし続けるために、水を供給し続けなければならない。ところが今回、地震と津波の影響で電源が全部失われて水が止まってしまった。

原子力発電の根本的・本質的欠陥

原子炉内に生まれる大量の“死の灰”を原子炉内部にぜったいかつ安全に閉じ込める技術を人間はまだ手に入れていない。

使った核燃料の始末ができない

原子炉から取り出した“死の灰”である「使用済み核燃料」を始末するシステムを人間はいまだ開発できないでいる。日本は使用済み核燃料を、使えるプルトニウムと残りカスに分ける「再処理」路線を強行しようとしている。

さらに危険な残りカス=高レベル放射性物質

放射能が半分に減るまでに、何千年、何万年もかかる高レベル放射性物質をどこでどう始末するかも、人間は答えをもっていない。

Ⅱ 世界有数の地震・津波国に集中立地することの危険

日本列島のどこにも、大地震と大津波の危険性のない「安全な土地」と呼べる場所は存在しない。大地震・大津波にみまわれる危険性がないと断言できる原発はひとつもない。

Ⅲ 「安全神話」の大罪

いまの原発技術が本質的に未完成で危険という認識ももたず、その原発を地震・津波国で大増設することの危険性の認識ももたず、どんな技術にも「絶対安全」は存在せず事故の可能性は排除できないという認識ももたず、「安全神話」にどっぷりつかってきたために、対策をもたなかった。現在の事態を招いたのは歴代政府、電力会社の大罪。

Ⅳ 原発事故は明らかな人災であること

「安全神話」を追及し、最悪事態を何度も警告した共産党や市民団体の声を無視し続けた結果に起こった事故であり、明らかな人災。「自然の驚異」「想定外」の言葉は責任逃れ。

国会では、監視体制の問題 (76年1月、99年11月)、使用済み核燃料の危険性・処理不能の問題(76年1月、99年5月)、「安全神話」の問題 (80年2月)、震源域への立地の問題 (81年2月)、冷却水喪失の危険の問題 (06年3月)でも、国と電力会社は聞く耳を持たなかった。

とくに冷却水喪失の危険は、「原発の安全性を求める福島県連絡会」の指摘に基づき05年2月に私が福島県議会で明らかにし、「連絡会」が同年5月には文書で「福島原発の抜本的対策」を東電に求め、07年7月には党県委員会・県議団・「連絡会」連名で「冷却材喪失による過酷事故に至る危険」を指摘し、「福島原発の耐震安全性の総点検」を東電に求めていた。

すべて無視された。

人災と認め、風評被害を含めて被害への全面賠償をさせなければならない。

二 原発推進から撤退への転換のとき

Ⅰ 原発からの撤退の戦略的決断

原発からの撤退を政治的に決断し、原発をゼロにする期限を決めたプログラムを政府の責任でつくること。そのさい、

・    福島第一・第二原発は廃炉にする

・    原発の新増設は中止する

・    浜岡原発は廃炉とする

・    老朽化した原発の運転は中止する

・    住民合意のない原発の運転は中止する

・    放射性廃棄物の再処理施設を閉鎖する

・    プルサーマルから撤退する

・    自然エネルギーの開発・普及・促進、低エネルギー社会への移行のために知恵と力をそそぐ

Ⅱ 安全優先の原子力管理体制の確立

原発の運転停止後も、廃炉までには20年かかるといわれ、その過程で放射能が外部に流出しない最大限の努力が不可欠である。また、未確立の使用済み核燃料の処理技術を確立し、処理作業が完全に終了するまで、きわめて長い期間、核廃棄物を環境から厳重に隔離し、監視し続けなければならない。

原発ゼロにいたる期間のすべての段階を、厳重な安全優先の管理と規制の体制のもとで進めるためにも、強力な権限と体制をもった原子力管理体制の確立は緊急につくりあげなければならない。

以上

権利とこの国のかたち/憲法は語る

日本国憲法は、「権利」についてこう言っています。

「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(11条)

なぜなら、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(97条)だからです。

だからこそ、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要」(13条)とされ、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(14条)のです。

だからと言って、国民が黙っていていいわけではなく、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と、権利をいつでも侵害する権力の監視を怠らないよう、一人ひとりの国民に強く促しています。

そのうえでこう言います。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文)。

日本の国づくりの方向は、戦争や貧しさに象徴される「恐怖と欠乏」から免れることであり、その国家のいちばん大事な仕事は「平和のうちに生存する権利」を保障すること、というわけです。

「平和」と「福祉」は不可分であり、日本の国のかたちは「平和・福祉国家」であることを示したのがこの前文で、これを9条と25条で具体化しました。

私は、日本国憲法をこのように理解し、この全面実践にとりくむべきなのが、日本の政治家の仕事だと受け止めています。

憲法記念日が過ぎてしまいましたが、きのう、新入職員にそんな話もし、新聞やブログで憲法に真剣に向き合う言葉も目にし、政権交代があっても、憲法が国家のあり方として民主党からもまったく見えてこない現実を目の当たりにし、書きとめたくなりました。