野田内閣の異常/「政権選択」仕掛けの崩壊

野田佳彦首相の行動は異様です。

2年前、自公政権は審判によって退場させられ、民主党は自公政治を変えることを使命に政権についたのでした。

野田首相の行動は、組閣前に自公両党と党首会談をし、民主党が国民に約束した政策を廃止・見直す「3党合意」を遵守し、消費税増税の協議実行などを約束したことでした。

もうひとつ、組閣前におまいりしたのが財界。

自公と一体化し、財界直結の野田内閣の姿勢は異常です。

財界による仕掛けと、大手マスメディアにより、「二大政党」「政権選択」の名のもと、民主、自民は中身のない「偽りの対立」を演出してきた2年間ですが、その仕掛けも崩壊です。

小集会/「いい景色が見られるのに」/炊事場から孫の部屋から

突然、大雨になったかと思うと、すぐに晴れ間が出て暑い日差しになったり、そんなことが繰り返すはなはだ不安定な天候でした。

私が住む地元の住宅街で、震災後、2度目の小集会がありました。高橋あき子市議と、「放射能・原発と市民のくらし」をテーマにお話しました。

「共産党が原発問題で指摘し続けていたことを無視した政治の責任は大きい」、「子どもたちの学校生活について、保護者の自己責任にするようなことがないようにしてほしい」、「地域の除汚活動について、その回収まで行政が責任をもってほしい」などなど、どこでもほんとうに、原発・放射線問題では話題がつきません。

この集まりを前後して、「しんぶん赤旗」日曜版を配達している党員の案内で、読者宅を訪問し、放射線量を測ったり、震災後の話を聞いて歩きました。

すぐ裏が山で、庭の向こうにも山が見えるお宅では、庭先の放射線量が0.33μ㏜毎時。毎日報道される県合同庁舎前の値が0.17程度なので、「やっぱり高い」と不安いっぱいです。「茶の間からこんないい景色が見られる場所に家を建ててよかった、と思っていたのに、原発事故で避難はする、心配なくらしを強いられる、ほんとうにとんでもないことになった」と。

夕刻にたずねた2世帯住まいのお宅では、門から入った庭先、庭木の下、芝の上、子どもと孫が出入りする玄関、炊事場、風呂場、孫が寝るベッドの部屋、茶の間などを案内され、測って歩きました。家の中は0.11~0.13、庭も0.16~0.22で、「測ってもらってひとまず安心した」と。

こうして歩けば歩くほど、事故対応の国家としての無策には腹立たしい思いです。

 

大雨警報/大震災後の街宣と対話/消防団へ義援金

金曜朝は平神谷(かべや)の国道6号線沿いでの定時定点。大雨警報発令中ですが、そんな様子でもなく、決行。話している間、2~3分、雨に降られましたが、なんということもありませんでした。

きのうの報道にあったように、県議選投票日が11月20日となれば、もう3か月もありません。

選挙ともなれば、有権者との関係でどれだけの活動をしてきたかを把握してこれからの活動に活かすのが私たち政党組織の常識です。が、大震災後、私個人もなかなかそういうわけにはいきませんでした。

そこで、私もせっかくこうして日々の活動を全世界に公表している以上、振り返ってみました。

街頭からの訴えは3月はさすがにする機会をつくりませんでしたが、4月から8月末までは、5か月で153回でした。直接訴えたり話をかわした人数は延べで4000人強。去年の4月からだと2万人を超えます。

ともかく、選挙は結果ですから、みなさんのあたりまえの声を活かす政治・行政を実現するために、これからまたがんばります。お力をお貸しください。

きょうは地区党として、党中央委員会からの義援金をいわき市消防団に届けました。

団長と3人の副団長、いわき市消防本部の幹部職員が応対してくれ、震災後の消防団の活動や市内の被害状況、原発事故収束を含めた今後のまちづくりや海岸地域の防災について、率直な意見交換をすることができました。

取材に来た記者が私の高校ブラバンの後輩で、今年も母校は東北代表の3校の中に入り、つい、得意になって党のみなさんに紹介しました。

 

関東大震災と「防災の日」/定時定点全日再開

88年前のきょう、午前11時58分31.6秒、マグニチュード7.9の関東大震災が発生しました。神奈川県西部の地底で岩盤の大破壊が始まり、巨大な亀裂となって湘南地方と相模湾の地下に拡大し、さらに房総半島までの大地を切り裂きました。1703年元禄関東地震以来220年間たまり続けた南関東全域のひずみエネルギーが一挙に放出されました(石橋克彦著『大地動乱の時代』岩波新書、1994年、68㌻)。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期と同時期に始まった関東・東海地方の「大地動乱の時代」は、この関東大震災でいったんおさまりました。そして首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)が今まで続いてきました。

自然の営みの自然な成り行きとして、地震活動期に入っているなかで、「防災の日」を迎えました。

9月に入ったきょうから、朝の定時定点の街頭からの宣伝を平日の全日で再開することにしました。5月中旬から月・火、6月中旬から金も再開していました。

けさの各紙が「福島県選管が11月20日の県議選投票方針」と報じたこともあり、なにやらそんな雰囲気も感じた街宣でした。

きょうは、今週土曜日の勉強会の準備と、今月号の「かけはし」原稿を執筆です。

 

好間行動/街宣・訪問/期待がない首相

内郷・好間(よしま)いっせい行動で、きょうは好間地域に入りました。

まずは午前10時半から、国道49号線沿いのスーパー前で街宣。49号線を平方面へ向かう車から手を振っていただく姿が目立ちます。ありがとうございます。

その後私は、好間地域の党員と夕刻までお知り合いを訪問。その幅広いつながりに、私はびっくりです。

「民主党が日本を変えてくれると思っていた。もちろん、民主党に投票していた。まったく間違っていた。これからは共産党に投票することにした」というかた。

「自給自足の庭の畑の作物は全部あきらめた。なんの価値もない土地から固定資産税だけは取られるのは納得できない」と訴えるかた。

ここで生まれ育ち、社会的な役割を担うかたも少なくなく、自民党の市議や県議を公然と支援してきたかたがたも、「こんな事態になったからは、原発問題でずっとその危険を指摘し続けていた共産党にがんばってもらうしかないと思っている」、「わざわざ来てもらってありがたい。今度ばかりは応援したい」と、いっしょに行った党員が驚くほどの励ましの言葉。

新たな首相が決まった直後とは思えない、民主党へのあきれかえった声が圧倒的なのも、歴史的出来事のように思えてなりません。新しい首相にがんばってほしい、という期待がまずないのです。

 

 

街宣場所でのいろんな出会い

朝は小名浜での定時定点。

実は先週土曜から、おなかの調子が万全でなく、けさも家で2度、この定点近くの医療生協施設にも飛び込まざるをえないハプニングもありました。

きょうは午前と夕刻と、小名浜地域での街宣。それぞれの場所でいろんな出会いがありました。

話し始めると、手を振って家から出てきてくれる人。話している間は家のなかで、話し終えるとまた出てきてくれて手を振ってくれました。ごあいさつに行くと、「誰も言ってくれないことがある。各家屋で最初に放射性物質が降ってきたのは屋根だ。すべての家屋の屋根の除汚を行政の責任ですべきだ」と。これは大事な指摘ではないでしょうか。

ある場所では、宣伝カーの上で話している最中に、旗持ちをしてくれていた後援会員に車で近づいてきた若者が冷たい飲み物の差し入れ。びっくりでした。

また別な場所で聞いてくれていたかたにごあいさつすると、「職場の人の関係で創価学会に入り、その職場をやめることになって創価学会もやめたら、ストーカー行為から嫌がらせからインターネット上での中傷から、今も続いている。どういうことなのか」と。全国各地でそんな事例があることは話には聞いていましたが、直接訴えられたのは初めてでした。

夕刻もまたそれぞれの場所で声をかけられました。「加工工場を津波で流されて仕事を失ったり、風評で仕事を失った人がまわりにいっぱいいる。行政に届けられた義援金は、そういう人にこそ届けるべきではないのか」と切々な訴え。

まったくそのとおりで、庶民増税のための「大連立」以前の問題で、すべての党派が一致して実施できることなのです。

 

 

2か所の定時定点/街宣と放射線測定/訪問

月曜日朝は自宅から遠くない2か所の街頭からの定時定点の宣伝。先週は大雨で取りやめたので、2週間ぶり。

きょうの民主党代表選に至るこの2年間の裏切りの連続と、直前の自民・公明との3党合意で、審判で退場させられた自公政治に回帰する姿勢をあらわにし、原発震災での対応が二の次になっている恥ずかしい政権を告発しないわけにはいきません。

昼間も平の平窪(ひらくぼ)地域で5か所の街頭から。民主党代表選のさなかでしたが、話の基調は朝と変えませんでした。

途中、「放射線量を測ってほしい」と要望されていたお宅にも寄りました。玄関先は0.15μ㏜毎時ですが、雨どいの出口の土の部分は1を超え、庭の中の自前の側溝の土の上は0.5前後。庭の地表が0.2を超える程度。

自宅のすぐ脇の畑は、草刈りは何度もしたようですが、刈り取った草が残る地表では0.4を超えましたが、畑を掘り起こした土の中は0.15でした。表土をはぐと、やはり効果は間違いなさそうです。

夕刻には自宅がある地元にもどり、医療生協後援会のみなさんと訪問。原発事故への怒りと激励の声が続きました。歩くことは大切です。

 

早朝野球/満蒙開拓・シベリア抑留/戦友

久しぶりに朝早く、ペロと散歩。小学校校庭での早朝野球を観戦しました。試合途中で仕事へ出かける人、途中でチームに合流する人など、働く人たちならではでした。

22年前に亡くなった私の父親と、10代半ばから満蒙開拓青少年義勇軍やシベリア抑留生活をいっしょにおくったかたを、母親と訪ねました。9月17・18日の「第8回いわき平和のつどい」の企画の相談でした。

終戦後に作られた名簿や、少年たちが訓練した訓練所の写真などを見せていただきました。「ずっといっしょだった小倉くん(父の旧姓)には世話になったんだ。苦労ばかりの人生だった。ほんとうにたいへんだった」と涙ぐむ姿を見ると、戦争が終わっているような気がしません。

ここはきれいな水が湧き出る場所。定期的に汲みにやってきては、当時の話をしていく戦友もいるそうです。

生協・子供会・見守り隊/放射能勉強/代表選

医療生協支部と子供会と小学校下校時見守り隊の共催の放射能の勉強会で、医療生協の理事として話をさせていただきました。

テーマは「原発事故と私たちの暮らし」。

この地域のみなさんとは、私が小名浜生協病院事務長時代から縁があり、会場の集会所は医療生協のサークル班がずっと利用していました。当時から、医療制度のことや介護制度のこと、後期高齢者医療制度のこと、市立病院民間譲渡の問題があるたびに、お話をさせていただいていました。

以前からそうなのですが、こうした勉強会があるときは、区長さんも必ず顔を見せ、あいさつしてくれるのです。

私からは、今回の福島原発事故を受け、国家として「原発から撤退し、自然エネルギーの本格的導入へ」政策を根本的に切り替えることを導入に、「放射線と人体影響」について考える材料提供の話です。

「水はすべて購入するミネラルウォーターにしている人がいる。水道水は心配ないのか」、「家庭菜園の野菜は食べられるのか」、「ひまわりが放射性物質を減らしてくれるというのはほんとうなのか」、「家のまわりは毎時0.2μ㏜を超えることはないが、庭の芝生の上が毎時0.3μ㏜で、どう対応したらいいか」、「マイクロだとかミリだとか、どういう意味なのか」、「ベクレルとはなにか」、「稲わらを使った子ども向けの行事は続けられるのか」などなど、実に問題は深刻です。

これらすべての大前提は、放射線測定です。原発事故由来の死の灰による放射能汚染がどうなっているのか、国家と行政の責任で測る手立てをはっきりとしてもらわなければなりません。測るのは私たち市民でもいいんです。

政権党の民主党代表戦に立候補しているみなさんが、こういうことを理解しているとは思えないのですが。小沢詣でと原発再稼動と自民・公明政治への回帰。話になりません。

あうんの呼吸/放射線と健康/意外な出会いも

金曜日朝は平神谷(かべや)地域の国道6号線沿いの定時定点。

「迎え盆」と大雨で2週連続の休みでした。けさもいっとき小雨模様でしたが、3週続けて休めない、の意思が地元の人たちとあうんの呼吸でした。

午後、浜通り医療生協の「福島第一原発事故から、私たちは何を学ぶか?」の「Part4」の学習会がありました。私は2度目の講師で、「放射線と私たちの健康について」。

会場はせいきょうクリニックの待合室で、職員ばかりでなく、小名浜各地の組合員さんたちも参加してくれました。「いろいろな人から話を聞いてもなかなかわからない。今度また、私たちの地元で話してもらうから」とリクエストもあり、ありがたいばかりです。

とにかく、これからの心配は、原発事故後に育った農作物や海産物、そして子どもたちへの影響です。学習会後の質疑もここに集中しました。

夕刻には、私が住む地元の党の医療生協後援会員のお2人と訪問。

地元とはいえ、私が住む住宅街の隣りの広く人も多い住宅街で、初めてたずねるお宅がほとんど。みなさんから歓迎というか、激励され、元気をもらえます。

「放射線量を測ってるの?」と散歩しているかたから声をかけられたと思ったら、「どこかで見たと思ったらはせべさんか」と意外な出会いがあったり。