夕べは福島市内の「常宿」に泊まり、朝、県庁控室へ行くと、けっこう早い時間に災害対策課から「伝えたいことがある」と。
さっそく来てもらうと、県として作った一昨年(2013年)3月発行のA4版396ページの『東日本大震災の記録と復興への歩み』の中では、当時の職員の声を50か所ぐらいにわたって紹介している、とのこと。
実は私もこの分厚い冊子をそうした目では見ていなかったので、認識を新たにしました。
問題は、私が先だって言いたかったのは、広域自治体の県として、あの原発震災の大混乱時、各市町村とのやり取り、国とのやり取り、事業者とのやり取り、その中での災対本部職員の対応など、何がどうだったのかを、ドキュメントの第一編を作成した楢葉町の職員から、県こそこういう記録が必要ではないか、という声を受けて、県として真剣に作成を考えるべきではないか、ということでした。
要するに、それは困難、ということのようだったので、原発立地県として原発震災の真っただ中にあって、県職員の人間としての当時のありさまをありのままに残すことこそ、教訓を残すことになるはず、と私は譲りませんでした。
10時には控室を出て、自家用車で2時間ほどかけて矢祭町(やまつりまち)へ。党県南地区委員会主催で、午後1時からの介護保険問題についての学習会で話をしました。
町民のみなさんはじめ、近隣町村の党議員のみなさんも含めて40人ほどの参加者で、会場の矢祭町中央公民館2階の部屋がいっぱいでした。
私の話も、介護保険だけでなく、この間、いわき市内で話している「医療・介護総合法」のことだったで、質問も、「入院したら、間もなく退院するように言われたがなぜなのか」、「医師の判断で、入院期間は伸びるのか」といったこともありました。
議員のみなさんからは、介護保険での要支援1・2と認定された人たちの「新総合事業」にかかわる質問も連発され、執行責任者でない私としては、住民の立場で、これまでのサービス内容を後退させないための行政への働きかけと監視の重要性を強調しました。