地方の論理/「地方が地方であるまま」/持ち上げすぎ?

『地方の論理』(佐藤栄佐久・開沼博著、青土社)を読みました。

栄佐久さんは、私が県議1期目のときに、5期目の県知事を務め、その途中、06年9月でしたが、県発注のダム工事をめぐる「汚職問題」で辞職し、その後逮捕され、09年10月には東京高裁で「収賄額ゼロ」で有罪という判決を受け、最高裁に上告中です。

人生の20年も先輩の栄佐久前知事とは、憲法認識、県が進める行財政改革、教育基本法改定問題、義務教育国庫負担金の問題などで、本会議場で再質問・再々質問と議論しましたが、やはり原発・プルサーマル問題が印象に残っています。

とくに04年2月議会での総括審査会で、プルサーマル計画は白紙撤回したからその後はいっさい考えていない、と2度答弁されたことは強烈でした。私は「今後どんな考えで対応するのか」と聞いたので、なんだか答えてもらえなかったように思ったものです。

開沼さんは私の高校の24年も後輩で、まだ大学院博士課程在籍中の社会学者です。

本書で言う「地方」が、メディアや政府サイドから言われる「地域主義」「地方分権」「地方の時代」の「地方」とはずいぶん違う意味で使われています。

簡潔にいうと、「地方が地方であるままで生きていける論理」ということです。

たいへんに共感を覚えるのですが、それにしても、取材し、学ぶ対象とすることもあるかもしれませんが、栄佐久前知事を持ち上げすぎの感もないではありません。

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