小川の山間地域/平窪の農村地域/神谷つどい

月曜日朝は、自宅近くの2か所の道路沿いの街頭から、出勤されるみなさん、朝早くから仕事をされている事業所のかた、ご近所のみなさんに訴えています。

午前中は小川地域のおもに山間地域をまわり、7か所の街頭から。見晴らしがよく、家々も点在する地域なので、声を通らせようと、ついノドに力が入るようです。意識では「力を入れすぎず」なのに、無意識に力が入るようで、7回話し終えたら、声がガラガラ。

午後はその南の平窪地域で、やはり農村地域を中心に10か所の街頭から。午前中の教訓に立ち、力を入れすぎずに。

のどかで静かな風景のなか、農作業をされているみなさんからの暖かい声援に励まされました。

夕刻には神谷(かべや)地域の党後援会主催で「はせべあつしさんをかこむ会」。自由に話して、ということでしたが、案内チラシが、県議会で原発廃炉請願が全会一致で採択など、原発問題なので、この問題を中心に。

原発事故賠償や除染がちっとも進んでいるとは思えないがどうなっているのか、その財源はどうなっているのか、家庭菜園やわが家で収穫したコメの放射線量を知りたいがなぜしてもらえないのか、などなどの質疑で2時間はあっという間です。

きのうの写真ももう一枚。

「小川の山間地域/平窪の農村地域/神谷つどい」への3件のフィードバック

  1. はせべあつし候補者のブログは多くの有権者が閲覧しているので、「黒田如水」のウィキペディアを貼らせていただきやす。
    黒田 孝高 / 黒田 如水(くろだ よしたか / くろだ じょすい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。

    目次
    1 生涯
    1.1 出身
    1.2 播州時代
    1.3 織田家臣時代
    1.4 豊臣家臣時代
    1.5 豊前国主
    1.6 関ヶ原の戦い
    1.7 晩年
    2 人物
    3 逸話
    4 黒田如水の遺品
    5 参考文献
    6 関連作品
    7 脚注・出典
    8 関連項目
    9 外部リンク

    生涯 [編集] 出身 [編集]黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない[1]。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、守護赤松晴政、後に御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。

    播州時代 [編集]天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。

    永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり撃退した(青山・土器山の戦い)。

    天正元年(1573年)小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち将軍義昭を追放し畿内で勢力を拡大する織田信長と、山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の、2つの大勢力に再び挟まれることになった。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価していた孝高は、いち早く主君・小寺政職に織田家への臣従を勧め、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。さらに政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させた。

    天正4年(1576年)、亡命した将軍・足利義昭を抱える毛利氏は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5,000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退ける。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。天正5年(1577年)の秋、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉を播磨に進駐させた。孝高は居城である姫路城を秀吉に提供し、一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山(98m))に移らせ、自らは羽柴秀長に従い生野銀山を領する竹田城(但馬国)攻めに加わった。

    織田家臣時代 [編集]ところが天正6年(1578年)、東播磨の大勢力である三木城主・別所長治が、殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し[2](三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退けたが、秀吉本隊は上月城の戦いの後に、山中幸盛らを残し、信長の指示に従い軍を撤退。さらに織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。

    この時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出された。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったと言う(『黒田如水傳』)。

    天正8年(1580年)、秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている[3]。 孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。

    天正9年(1581年)、秀吉は因幡国の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。

    また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[4]。

    豊臣家臣時代 [編集]高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。

    天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

    天正12年(1584年)の前年より大坂城の縄張りに当たっていたが、小牧・長久手の戦いの時期には、外交に手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。

    天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。

    天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。

    天正15年(1587年)の九州の役では、毛利氏などを含む豊臣秀長の軍勢の軍監として島津義久の軍勢と戦い、戦勝に大きく貢献している。

    豊前国主 [編集]九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万5,000石(太閤検地後17万石)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政・後藤基次らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。

    天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行ないは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。

    天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。

    家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原の役では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている。

    文禄元年(1592年)から、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れなかった。和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、文禄2年(1593年)には五奉行の石田三成との間に確執が生じ、秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。

    関ヶ原の戦い [編集]慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。

    慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。黒田氏は当主・長政が家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

    中津に残っていた如水も、家康方(東軍)として行動した[5]。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した[6]。 道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。

    その後、如水は西軍に属した太田一吉の臼杵城、毛利勝信の小倉城などの諸城[7]を落としていった[8][9]。 国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月には、加藤清正とともに柳川城を攻め、立花宗茂を降している。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

    晩年 [編集]関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として長政が先に筑前国名島(福岡)52万3,000石への加増移封となった。如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。

    慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

    人物 [編集]築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城などに縄張りや助言を行った。
    隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さ、或いは「孫子」の一文を引用したとされ、人生訓として用いた一方、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョスエ(Josué)も引用しているとされる[10]。水徹を号に用いた竹中重治の影響も考えられる。
    ジョスエとは城攻めの才能に共通点がある一方で、孝高は人を害したり神社仏閣を聖絶する事を好まず、晩年は再建に努めた大宰府天満宮内に草庵を構えている。
    竹中重治(半兵衛)とは、後世、共に秀吉の双璧と謳われ、「両兵衛」「二兵衛」と称された。
    倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げる、城には天守閣を築かず矢倉で代用するなどで蓄財に励んだ。一方で関ヶ原の戦いで兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
    徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(三河後風土記)。
    歴史小説等では不遇の天才武将として描かれることが多い。関ヶ原の合戦では家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下をとろうとするも息子の長政の活躍[11]によって阻まれた、とする作品が多い(そのような説も存在する)。しかし、実際には主君を裏切ったことは一度もない[12]。
    安楽寺天満宮(太宰府天満宮)復興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
    遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
    逸話 [編集] この記事または節には、複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
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    荒木村重謀反の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(黒田長政)を殺害するように命じた。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。
    孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
    秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。
    『名将言行録』によれば、本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという[13]。
    同じく『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したという。同書には続けて「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている[13]。
    秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正・福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。孝高と並んで「両兵衛」と称された竹中半兵衛に関しても、同様にわずかな知行しか与えられていない。
    文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
    小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。
    中津市の合元寺には、中津城内に旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が謀略結婚により呼び寄せられた際、40人の城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて上記のような伝説を生んだ可能性もある
    京都の聚楽第邸内の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。
    旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
    賤ヶ岳の七本槍に倣い、自分の家臣から24人の精鋭を選出して黒田二十四騎と呼んだ。そして、この24人の中でも更に優れた後藤基次や母里友信など8人を黒田八虎とした。
    関ヶ原の合戦の後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが後世の創作ともされ、現在のところ最も古い記述は大正時代の『黒田如水傳』までである。
    関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
    筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が祖父・黒田高政の代から関わりが深く、洪水で壊滅した備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更された。
    『名将言行録』によれば、晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという[13]。
    人物の項にも記されている様に、身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
    家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。
    隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり襖や障子をブチ破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。海音寺潮五郎はこの事を指して、信長・秀吉・家康の所謂戦国三傑より人物的には勝っていると思われるのではなかろうかと評した。
    黒田如水の遺品 [編集]如水が使用したと伝わる遺品が現在も各地に残っている。

    愛用した兜「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っている[14]。この兜は後に起こった黒田騒動にて利安の子である栗山利章が盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上された[14][15]。現在この兜は同地にある盛岡市中央公民館に保存されている[14]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、志方城の城主櫛橋伊定から贈られた兜である[16]。
    如水所有の刀のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。
    刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)[17][14]
    天正3年(1575年)7月、美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が山城国の刀工長谷部国重の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。
    刀 備前長船祐定(安宅切)[18][19][14]
    天正9年(1581年)11月、四国攻めの際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から埋忠明寿の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。
    太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)[20][21]
    天正18年(1590年)の小田原の役の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。
    また、小田原の役の降伏交渉の際に北条氏直から歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の北条白貝も如水に贈られ[21]、『吾妻鏡』は国立公文書館に[22]、北条白貝は福岡市美術館に保存されている[23][24]。

  2. さて無駄に長い駄文ですが、私が黒田如水なら、長谷部淳元県議が太閤殿下であらせられる「豊臣秀吉」です。

    黒くダークな肥満体の青年ですが、複数県議達成の悲願のため、長谷部総参謀長として「独自の戦い」を引き続き継続します。
    ローマ・カトリックの組織票はすでに247票固めました。
    私だけですでに<1万4千票>は突破したと自己過大評価します。

  3. ついでにその愚息の黒田長政の文章も貼ります、
    •父・孝高ほどの知略の人物ではなく、どちらかといえば武勇に優れた勇将であった。但し関ヶ原における調略に代表される様に、高い知略も持ち合わせていた。
    •秀吉の死後は藤堂高虎に匹敵するかのように、家康に忠実に仕えた。蜂須賀正勝の娘を離縁して家康の養女を娶り、さらに家康の命令の普請賦役を恙無くこなした。これにより、外様大名でありながらも信頼された。
    •三成を恨んだのは、かつて父が失脚した一因に三成との対立があったからだと言われる。しかしこれには後日談があり、関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに馬を降りて敵軍の将として礼節を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったとされる。この時、長政は自らの羽織を三成に遣わし、手向けの言葉を送ったという。
    •熟慮断行の気性であったようであり、父・如水はそれを優柔不断のように見えたのか「自分はかつて小早川隆景に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたらしい。長政はその言葉をヒントに、後年「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上で決断する仕組みを作ったとされる。
    逸話
    •関ヶ原戦直後、家康は長政の功労に自らその手をとって賞したという。帰郷してこの事を父・如水に話すと、如水に「それはどっちの手であった」と尋ねられた。長政が「右手でございます」と答えると、如水に「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手で家康を刺さなかったかと言う意味)と詰問されたという話がある。[3]
    •晩年には長男の満徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの家訓(御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。また、一時は忠之を廃して三男の黒田長興を後継者にすることを考えたとされる。後に忠之の時代に黒田騒動が起こった事を考えると、この長政の心配は当たっていた事になる。
    •嫉妬深い一面があり、父・如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く、如水から大名なみの厚遇を与えられていた後藤基次を追放し、さらに奉公構という措置を取った。これは、長政が基次の功績と、かつて如水に寵愛された事を嫉妬したからだという。ただし、実際には、むしろ如水が、基次を「謀反人の一族なので、そば近くに召し使うことは無用」と命じたにもかかわらず、長政が厚遇したのであり、基次出奔も、長政が、仲の悪い細川家との付き合いを家臣に禁じたにもかかわらず、これに従わなかったことが原因とされる。
    •忠之が4歳の袴着式を迎えた時、母里友信は「父君以上の功名を挙げなさい」と言ったという。それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ」と激怒し、友信を殺そうとしたという。ただし、周囲から取り成しにより収まった。
    •死の床につき、家老宛に「徳川が天下を取れたのは、黒田父子の力によるもの」としたためたという。このことから関ヶ原の戦いでの東軍勝利の影の功労者として、長政はこの戦いを生涯の誇りとしたとされる[4]。
    •バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。
    >後々の世、つまり後世の歴史家に「長谷部が当選できたのは、青年支部の力によるもの」と遺言を残した偉人(自分自身)がいると伝記を書いてもらいたいものです。

    長谷部元県議に当選後に読んでもらいたい書籍は、松本清張の「軍師たちの境遇」角川出版社です。

    選挙期間中でも休憩期間を最大限に有効活用して読んでください。

    <読書の秋>なんですから、候補者も有権者より多く活字に目を通していただいたいのですよ。

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