原発事故の原因すらわかっていないのに「事故収束宣言」をしてみたり、原発再稼働をすすめようとしたり、福島原発10基廃炉の政治的決断もできないのには、深刻な政治的背景がありそうです。
しかもそれは、福島原発事故後に公然化するという、新局面です。
2011年9月7日「読売新聞」は、「展望なき『脱原発』と決別を」と題した「社説」で「日本は…核兵器の材料となり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」と書きました。
同年10月5日の雑誌『サピオ』では、現在は自民党幹事長で、当時は前防衛相だった石破茂氏が「私は核兵器を持つべきとは思っていませんが、原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという『核の潜在的抑止力』になっていると思います。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力を放棄することになる、という点を問いたい」と言っていました。
2012年1月25日には、当時、拓殖大学大学院の森本敏教授(同年6月から民主党政権の防衛相)が、札幌市内で行なわれた新春フォーラム「日本のエネルギーを考える」で、「国の基本として原子力を持つということは、単にエネルギーの問題だけではない」「非常に大事な抑止的機能を果たしている」「(原子力を)捨てるべきでない」と発言していました。
そして同年6月には、原子力基本法に、「わが国の安全保障に資することを目的」という文言がまともな議論もなしに盛り込まれました。
実はこれらは、2010年11月29日に秘密指定解除された、1969年の外務省文書「わが国の外交方針大綱」で、「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」とした考えの同一線上にあることは明らかだと思います。
日本の外交政策の基本を原発の潜在的核抑止力に置くことが、憲法九条とあいいれないこともまた明らかです。
こうした旧態依然とした政治を変えることこそ、今、必要なことです。
きょうは福島県原木椎茸生産者の会のみなさんが、原発事故の賠償などで要望にみえました。
また、再生可能エネルギー関連産業の育成やネットワークづくりなどについて当局説明を受けました。