いわき市発行の「広報 いわき」11月号に、昨年の震災時の避難状況などの市民アンケートの調査結果が掲載されています。
対象件数3,120で40.4%の回収率です。
これによると、震災で避難した人の割合はなんと55.0%、市外へ避難した人が47.3%です。
あの当時は、いわき市民の避難者数は5万人とも10万人とも言われ、いまだに把握された数字はありません。
人口は33万人ぐらいですから、親子や家族で避難したことを考えると、10万人をはるかに超えたのかもしれません。
避難した日は、3月13~15日の3日間で47.5%。15日が23.2%でいちばん多くなっています。
12日午後3時36分に第一原発1号機、14日午前11時1分に3号機で建屋爆発がありました。
情報入手手段はほぼ9割のかたがテレビでした。
昨年3月中には半数近い人がもどってきています。その時期に私は、避難先からもどったかたがたと出会っていたのです。
ゆみです
はせべさま
3月に取材に入ったときは、とにかく逃げる手段がとれた人はすべて逃げだした、という印象でしたが、いまだに正確な数字が出ていないのですね…
私の親せきたちもいったん逃げだしたものの、避難先にいづらくなったりお金が続かず、3月末から4月にかけて戻っています。
いずれにしろ未曾有の事態だったので、決して風化させずに地道な聞き取りをしてでも記録を残しておいてほしいです。私がフリーならやりたいなあ。「聞いて、書く」ということしかできないので…
ゆみ
今年の2月議会の一般質問で、いわき市内で「市民がどういう情報をもとに、どういう行動をとったのか、原発を立地した県として、大学や研究者、市との協力で、全住民を対象にした調査」を求めましたが、「国において…事故当初の行動について戸別訪問によるアンケート調査をしている」と、答弁を逃げられていました。
私の当時の「どういう情報」なのか、というのは、たんにテレビからの情報とかのことでなく、電力関係の親族からの情報がかなりのウエイトを占めている、という仮説があるのですが、証明するための時間と機会をつくれない1年半です。
フリーとかでなく、なんとか歩けないですかね… 未曾有の事態のもとでなにかが明らかにできると思うのですが…
はせべさま
確かに、「あのとき何が起きていたのか」はだれかがきっちりととりくむ必要があると思います。
ちょっと考えてみますね
ゆみ
突然メール致します。私は、いわき市平出身で、現在(数十年間)は、京都市に暮らしています。家族・親族らは、福
島県にいます。
原発事故からの避難の件で、私が非公式に聞いた数値は、①いわき市内の病院関係は、約7割が避難した。②ある
地域(いわき市内のかなり大規模な新興住宅地です)では、町内の大半が避難した。③その避難者の一部は、国道6
号線を利用して、茨城県に入り、関東方面に向かい、車の列は途切れることがない程だった。中には、避難する当て
もなく逃げて来た、という人たちもいた。
以上は、いわき市と茨城県にいる知人から聞いた話です。
なお、蛇足ですが、原発事故の情報を知るのは、政府と警察が一番早かった事が、伊藤守『ドキュメント テレビは
原発事故をどう伝えたのか』平凡社新書、2012年)に抱かかれています。
草々
コメントありがとうございます。
私も「いわき市内の病院関係」者なので、昨年の3月12日以降、しばしば出身病院に足を運びました。家族との関係もあり、数人の職員が避難したことは間違いありませんが、大半の職員は患者さんと病院、介護事業所を守り続けてくれました。
ある病院で聞いたら、若い職員で避難を希望する人には避難させ、ベテランが職場を守る、という職場もあったと聞きます。
また私が住む郷ヶ丘という住宅街もそうですし、お隣りの中央台という大規模な新興住宅街も、内郷高野(こうや)の新興住宅街も、残った人の印象では「町内の大半は避難した」とおっしゃいます。
道路も、常磐高速を早い時期に南下して避難されたかたは、「友部サービスエリアの車の大半がいわきナンバーだった」と聞かせてくれました。
いずれにせよ、原発建屋爆発後、いわき市民がパニックに陥れられたことは間違いありません。