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あつしのOFF  >> ブックトーク >>  ブックトーク-06年後期 ( 5月〜12月 )
06年後期06年前期12月11月10月9月8月7月6月青春
あつしのブックトーク06,05〜12
06,12,31
『医療構造改革と地域医療』(日野秀逸著、自治体研究社)
 副題は「医師不足から日本の医療を考える」。1986年、当時の厚生省の「招来の医師需給に関する検討会」が、1995年を「目途に医師の新規参入を最小限10%削減」という最終意見をまとめ、これを受け、文部省の「医学教育の改善に関する調査研究協力者会議」が、医学部の定員枠削減を求める「中間まとめ」を発表した。
 
 その後、国公立大学では次つぎと20人程度の削減を行なってきた。

 政府による政策のこの誤りが、国民の生命・健康・営業・生活を脅かすことになっていることは明らかではないか。

 著者は、その当時から、「日本の医師は少ないので、減らしてはいけないのだ」と主張してきた、と言う。

 世界保健機関(WHO)の「加盟国における保健労働者の国際比較」を見ても、日本より人口当たり医師数の少ない先進国を見つけることはできず、経済協力開発機構(OECD、30か国)の臨床医調査でも、人口10万人当たりの臨床医師数の加盟国平均が300人なのに対し、日本は200人で、平均水準に日本が達するには約13万人の医師数増加が必要である。

 研究者の中には、日本の医師数はベッド数に対して少ないが、それは日本のベッド数が多いからだ、と詭弁を弄する人もいるらしいが、絶対数が少ないことはこれらの数字からも明らか。

 著者は、人権と平和をつなげて医療を考え、守る必要性を強調し、@医療には支払い能力と関係なく必要が生じる大前提があること、A国際的な医療・社会保障の標準を目標におき、企業の応分の負担を求めること、B現場の実状を理解することの重要性を説いている。
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06,12,30
『ELICONA 若松紀志子からのメッセージ』
19日に紀志子さんご本人とお会いをしてお話をうかがった際にいただいた。

 編集人が日々の新聞社、発行人がアートスペースエリコーナで、非売品。

 アートスペースエリコーナは、いわき市平大町に2003年オープン。

 「光一郎の絵を置く画庫を備えたギャラリーと音楽ホールのある空間をつくりたい。そこで本物の展覧会、音楽会を開き、若い人たちも育てたい」、紀志子さんのそうした願いを、ご本人の私財を投じて実現させた芸術空間。

 紀志子さんの夫・光一郎は、1996年に予定していた静岡県伊東市・池田20世紀美術館での個展を目前に、肺の病気で95年に亡くなった画家。

 「エリコーナ」は、戦後、紀志子さんがいわき市湯本の自宅で、ふすまをはずして開いたレコードコンサートや演奏会の集まりの名称で、もともとはギリシャ神話に出てくる音楽の神・ミューズが住んでいた山の名前らしい。

 本書は、紀志子さんからの聞き書きの体裁で、90歳を迎えた昨年に発行された「メッセージ集」。

 京都で生まれ、姉に連れられて見た宝塚歌劇団の舞台に魅了され、ピアニストを夢み、戦争で何もかもなくしてしまい、戦後は光一郎の実家があるいわきでピアノ教師をして今に至る人生が、実にみずみずしく、若々しく、エネルギッシュに語られている、という印象。

 「自分が一番好きな自由が再び奪われるようなことがあったら、断固闘おうと思っている」の言葉にはそんな印象が全部詰まっている感じがする。

 ところで、『小林研一郎とオーケストラへ行こう』の「ブックトーク」で紹介したベートーベンの「運命」冒頭の「ジャジャジャジャーン」の話をしたら、「それは、呼吸」と、息を吸い込み、「ふっ!」と身振りをする姿は、まさに現役だった。

 小林研一郎さんも、中学二年生から紀志子さんの教えを受けた人。「そういうだらしない指で弾くのなら、音楽をやめなさい。第一歩からやり直すなら見てあげます」と10歳のコバケンに紀志子さんは話したそうである。

 コバケンも著書で「もし僕が若松先生にお会いできなかったら、きょうの自分がないことは確か」と書いているようである。
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06,11,24
『小林研一郎とオーケストラへ行こう』(旬報社)
コバケンさんはいわき市小名浜出身で、1940年生まれ。生まれてすぐに太平洋戦争が始まり、爆音や艦砲射撃の音、B29爆撃機が飛んでくると聞こえる空襲警報のサイレンの音や、爆撃から逃げまどう人々の悲鳴のなかで幼少期をこのいわき市ですごした。

 爆音や悲鳴が過ぎ去ったときに目に入る「太陽の光」「海の水のきれいさ」「透き通って見える小鮒が群れなす川」「ホタルが飛びかう雨上がり」「手をたたくと舞いあがるイナゴ」「家のまわりのカラタチの花」、こうした自然と語らった感性が、世界的指揮者としてのコバケンの仕事に間違いなく発揮されている。

 彼によれば、「聴いて美しいとか、心地よいとか、悲しいとか、勇気が出てきたとか、リズムがおもしろいとか、そういう何か感ずるものが心のなかに生まれてくる、それが音楽」。

 そして「音楽は、喜びや悲しみ、うれしさや悔しさ、好き嫌いなどの心の動き、あるいは自然や文学・絵画、それに社会の変革などから受けた感動や衝撃を、音でつづったもの」。

 そんな彼が、オーケストラに登場する楽器を紹介し、おすすめ名曲を独自のタッチでえがき、オーケストラ内部の仕事や日常活動も紹介してそのサポーターを募るなど、本書は、クラシックの入門にとどまらず、音楽文化活動をしているかたがたといっしょに音楽にかかわってみたい、と思いをいだかせる本である。

 世界のオーケストラを知るコバケンが、「日本でも、文化への公的な助成をもっと充実」するよう強調していることは重く受けとめないとならない。

 実は私は三十数年前の中学生当時、市内の吹奏楽を指導している先生がたの研修会かなにかだと思うが、コバケンの指揮でベートーベンの「運命」冒頭部分、あの「ジャジャジャジャーン」を合奏したことがある。

 最初に学校の先生が指揮をすると合奏にならず、コバケンに指揮が変わったらバッチリと合奏になり、次に先生が振ると合奏に近くなり、コバケンのタクトでまた合奏になり、最後に先生の指揮でも合奏になった、という体験。

 私にとってはいまだにこの経過が謎なのである
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06,11,22 『これが憲法だ!』(長谷部恭男・杉田敦、朝日新書)
タイトルどおりに「憲法とはこれだ!」と把握はできなかったが、憲法についてあれこれ考えるうえではなかなか面白かった。

 本書の出版元の紹介文によれば、「いま最も注目の憲法学者と政治学者が徹底討論。憲法学の現状への痛烈な批判も飛び出す、スリリングで最先端の憲法対論」。

 そしてオビには「改憲派も護憲派も悩んでいる人も、必読!」とある。

 政治学者である杉田氏が、憲法学者である長谷部氏に、次つぎと切り込んでいく、という形だが、こうした対論を本にまとめるのも大変な作業だと思う。

私の思考体験からすると、あまりなじみのなかったアプローチの仕方による思考なので、ただちには把握できないのだと思う。

 立憲主義から始まって、9条、日米安保、愛国心、「押しつけ憲法」と、テーマそのものはなじみがあるが、なにせ話の展開が私にとっては目新しいことばかり。

 なるほど、こういう憲法論議がこれから巻き起こることもあるのかもしれない、と感じさせられた。

 いろんな話の展開の末、「権利についても、いわゆる統治機構についても、そしてセキュリティーについても、現在の憲法を変えなければならない理由はついにみあたらなかった」というのが本書の結論。
 ともかく、この結論に至る話の経過を味わってほしい本である。
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06,10,23 『児童虐待』(川崎二三彦著、岩波新書)
「あとがき」で著者は、「たとえ最大限の力を尽くしても重大な事態を完璧に防止する自信などない」が、「そんな不安や困難を抱えながら日々真剣に業務を続けている児童相談所のありのままの姿、ありのままの児童虐待対応の実情を知ってほしい、という思いも抑えがたく、必死に執筆を続け」、「休日や夜間、早朝、疲れ気味の身体にむち打ちながら書き綴った」と記している。

 著者は、1975年創設の全国児童相談研究会(児相研)の事務局長もつとめている現場職員だが、現在進行形の今の事態と児童相談所が抱える問題に対する、文字通りの「現場からの提言」として、胸にしみる思いである。

 私が本書を読むきっかけになったのは県内の泉崎村で起きた児童虐待死事件であり、児童相談所とはこれを防止するために何をするところなのか、と思ったことである。

 私は、「現在の児童相談所は、児童虐待に適切に対応するのに見合った組織体制、十分な人員配置、ふさわしい専門資格、不可欠な研修システム、信頼できるサポート体制、根本的な法律上の枠組み、等々の何もかもが整備されないまま、もっとも困難な業務を担わされつづけている」と著者がいうことに問題は凝縮されているのだろうと思う。

 またここだけ引用すると誤解を生じるかもしれないが、児童相談所長が判断する一時保護をめぐって、「児童相談所は子どもを保護しないで批判され、子どもを保護してもまた批判される。…問題の本質は、保護すべきか否かの判断をすべて児童相談所長に委ねて済ませている現在のしくみ自体の中に潜んでいる」との指摘。

 現場サイドや専門家からは、司法が関与する制度設計提案があるにもかかわらず、ヒトもカネもないことが理由で、なかなか進まないようである。

 いずれにせよ私は、日本の子育ての風土を「土台から変えていく運動」という著者の言葉を重く受け止めないとならないと思う。
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06,09,15 『マネーロンダリング』(門倉貴史著、青春新書)
 「犯罪で得た非合法なマネーを資金移動を繰り返すことによって、マネーの出所や所有者をわからなくすること」がマネーロンダリング、ひとことで言うと、汚いお金を洗濯(ロンダリング)してキレイなお金に変えること。

IMF(国際通貨基金)の推計によると、現在、マネーロンダリングの規模は世界のGDPの2〜5%らしく、金額にすると900億ドル〜1兆5000億ドル、これは日本の一般会計予算規模に達するという。

 同じくIMFは、日本におけるマネーロンダリングの規模を年間1兆円程度と推計しているのだそうな。

 その摘発強化に向けて、金融監督庁が2000年2月に専門組織「特定金融情報室」を発足させるなど、国内におけるマネーロンダリング拡大を防止するためのとりくみは活発化しつつある。

 本書は、まずマネーロンダリングの手口のからくりを明らかにし、マネーロンダリングの温床となるプライベート銀行、タックス・ヘイブン、「地下銀行」の実態と問題点の指摘、またアメリカ・ロシア・イギリス・中国などで発覚した事件の真相に迫り、さらには政界・官界・財界・闇勢力を巻き込むマネーロンダリング事件と各界の癒着の構造の指摘、アングラ・マネー(後ろ暗いお金)の規模と実態、最後に政策的提言、という構成。

 「アングラマネーは、税務当局がいっさい把握することのできない資金」であり、「マネーロンダリングが拡大すればするほど、それだけ課税ベースは縮小」し、「税収が落ち込むことになればそれを補填するために、増税が行われ」、「まっとうに働いている人たちの税負担が重くなってしまう」という著者の問題意識に、私は共感する。
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06,08,21 『人にいえない仕事はなぜ儲かるのか?』
(門倉貴史著、角川oneテーマ21)
 著者が専門に研究しているのは、「地下経済(アンダーグラウンドエコノミー)」。本書でこうした違法な経済活動を紹介したひとつの理由は、財政再建にあせる政府がやみくもに国民の税負担を重くしていけば、こうした「地下ビジネス」が拡大していく恐れに対する警告。

 もうひとつは、こうした法律に触れる「地下ビジネス」を展開する人たちは、ビジネス・チャンスに非常に敏感で、お金儲けがうまく、オモテのビジネスで利益を上げるためのヒント、節税をするためのヒントがたくさん隠されているから、とのこと。

 そんなわけで本書の問題意識は、来るべき大増税時代に備えるには、いまのうちから税金に関する基礎知識を深め、節税のイロハを身につけておくことが重要、というもので、税金を納める側の立場になって、税金の仕組みとさまざまな節税テクニックを紹介した、と著者はいう。

 本書後半では、現状の日本の税制が抱える問題点を指摘し、所得税にかわる「支出税」導入を提案している。

 後半のこの分析と提案は慎重にかからないとならない。「税率を上げて国民を苦しめる前に、まずは税金の無駄遣いを無くす対策を徹底するのが先決」との政府への注文や、地下経済を税収増に結びつける著者の姿勢は評価するにしても、大企業減税についてなんら触れていないことや、納税者背番号制度導入の提言など、問題は多々ありそうである。
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06,08,17 『保育園と幼稚園がいっしょになるとき』
(近藤幹生著、岩波ブックレット)
 6月9日に参院本会議で「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律」が成立し、10月から「認定子ども園」が総合施設としてスタートすることになった。

 私立保育園保育士・園長を経験した著者は、この構想が、保育園や幼稚園の関係者の意見も十分聞かず、子どもにかかわる公的責任をあいまいにして、財政支出を減らすことが目的であることが明らかだ、と指摘する。

 日本中の保育園や幼稚園のあり方は、歴史性・地域性がある。だからこそ保育・教育内容は創造的であり、豊かさをもっている。その歴史のなかで、幼保一元化の議論が展開され、各地の幼稚園・保育園における創造的実践が積み重ねられてきた。

 その成果と、今回の総合施設構想は、異質なものであり、著者としての幼保一元化への前進に関する方向性を示すものとして本書は書かれた。

 日本の戦前・戦後の歴史で、保育園・幼稚園の二元化された仕組みがきわだってきたのは事実だが、制度を根本からささえる理念には共通性がある。

 すなわち、日本国憲法、教育基本法、児童福祉法、児童憲章、子どもの権利条約などにこめられた理念である。

 いまこそこの理念を深め合うことが大切だ、と著者は強調する。

 そして一元化への前進は日常の保育実践から生み出されるのであり、地域にあった幼保一元化への前身の方向を現場から築く手始めとしての保育園・幼稚園関係者の連携・交流、子どもの育ちを守る新しい公共性の理念を提案している。
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06,08,16 『監視カメラは何を見ているのか』  
(大谷昭宏著、角川oneテーマ21)
本書のテーマは「監視社会」。

 元共同通信社記者の故・斎藤茂男さんは、GHQや国家による冤罪、弾圧事件である下山事件や松川事件などが続発した1949年を指して、「かの年は日本の平和と民主主義を希求する人々にとって、その思いが踏みにじられた年であった」と言っていたそうである。

 この言葉を借りて著者は、それから50年後の99年も同じ、と指摘している。

 99年には周辺事態法、国旗国歌法、盗聴法(通信傍受法)、もうここまで国民をガンジガラメにしたんだからいいだろう、と思っていたら、住民基本台帳法の改正案(住基ネット)、その後も個人情報保護法、そして今回の共謀罪、「まさしく49年の比ではない」。

 教育基本法や憲法にも思いをはせ、「もうおわかりのことと思う。国家の、権力の狙いは『黙って戦争に行く国民を作り出す』、それに尽きる」と断じている。

 ところで著者は、目黒社会保険事務所職員が、勤務時間外の休日に、職場とは離れた自宅付近で「赤旗号外」などを配布していたことをもって04年3月に逮捕され、今年6月に罰金刑がくだされた事件にもふれている。

 「司法が自らの良心をかなぐり捨てて、ごくごく一般的な市井の人も、国家の監視下において構わないとした」「このことの恐ろしさをまず知るべき」、そして被告側も、単に「党の政治活動への弾圧だ」ではなく、「その対象がすべての市民に向けられていることこそ、指弾すべき」で、「日本の革新は未だそのことに気づいていない」と指摘している。
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06,08,14 『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一著 集英社新書) 
タイトルと著者の名前につられて買った。

 テレビでラジカルな発言をする芸能人などを見ると、「ああいう発言はどんな考えに基づいているんだろう」とつい思うものである。

 田中祐二くんをパートナーにする「爆笑問題」の太田光くんもそのひとり。とはいっても、このところ私が見るテレビは、民報の報道ニュースと2時間ものサスペンスドラマ中心で、バラエティなどは子どもたちに付き合うときぐらいになっているが。

 太田くんの本書での発言を少し紹介してみたい。

 たとえばイラクでの日本人人質事件について。「自己責任という言葉がわーっと吹き荒れて、人質の家族の、自分の子供の命を救ってほしいという願いですら、口に出せなくなってしまった…素直に自分が思っていることを表現すると、世の中から抹殺されることにもなりかねない」。

 たとえば憲法について。「日本国憲法の誕生というのは、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇蹟だと思っているんです…この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思います」。
 「その奇蹟の憲法を、自分の国の憲法は自分で作りましょうという程度の理由で、変えたくない。少なくとも僕は、この憲法を変えてしまう時代の一員でありたくない」。

 たとえば世界遺産について。「世界遺産をなぜわざわざつくるのかといえば、自分たちの愚かさを知るためだと思うんです…人間とは愚かなものだから、何があってもこれだけは守ることに決めておこうというのが、世界遺産の精神ですよね」。

 たとえば芸について。「若い人たちが、自殺サイトで死んでいくのも、この世の中に感動できるものが少ないから…それは、芸人として、僕らが負けているからなんだと思うんです…だとしたら、自分の感受性を高めて芸を磨くしかない」。

 私ももっともっと感性を磨かないと。
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06,08,14 『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』 
(講談社、絵・いわさきちひろ)  
「九条の会」呼びかけ人の一人である井上さんが、ご自分の「子どものときの誇らしくていい気分を、なんとかしていまの子どもたちにも分けてあげたい」と思って手がけた本。

 戦時中、国民学校で井上さんたち生徒は、先生から「きみたちも長くは生きられないだろう」と言い聞かされていた。ところが、8月15日を境に、「きみたちは30、40まで生きていいのです」と言われ、頭の上の重石(おもし)がとれたようだった、とのこと。

 1945年の日本人男性の平均寿命は23.9歳だった。

 それで井上さんはしばらく呆(ぼう)としていたが、翌年、日本国憲法が公布されると、先生は「これから先の生きていく目安が、すべてこの百と三つの条文に書いてあります」と、とても朗らかな口調で話され、井上さんはその呆とした気持ちがシャンとなった。

 とりわけ、日本は二度と戦争で自分の言い分を通すことはしないという覚悟に体がふるえたそうである。

 日本のこの「途方もない生き方」「勇気のある生き方」の選択は、「剣よりも強いものがあって、それは戦わずに生きること」。そのときに井上さんは、武芸の名人達人がいつもきまって山中に隠れたり政治を志す境地といっしょになった気分で、「なんて誇らしくて、いい気分だろう」と思ったようである。

 前半の「絵本」の部は、小学生向けに憲法前文と第九条を井上さん流にやさしくしたもの、後半の「お話」の部は、「朝日小学生新聞」の読者の子どもたちに話した内容をもとに、「これだけは伝えたい」と井上さんが思うことをやさしく話したものになっている。
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06,08,14 『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』 
(高橋哲哉・斎藤貴男編・著、日本評論社)
 高橋哲哉さんはちくま新書の『靖国問題』も書いていて、政治・社会・歴史の諸問題にいどむ哲学者であり、斎藤貴男さんは新聞・週刊誌記者を経て、監視社会や格差社会に早くから警鐘を鳴らしているジャーナリスト。

 本書の目的は、九条を最大の標的にした改憲論のねらいや背景を明らかにすること。読者にわかりやすくするために、あらかじめ多くの人に仮の読者になってもらい、ヒアリングを何度も重ねながら、企画、原稿を作り、とくに若い世代の疑問に答えられるよう心がけた、とのこと。

 改憲論のねらいや背景は実は憲法だけを見ていてもよくわからないので、歴史、「心」、監視社会化・格差社会化、軍事、経済、世界情勢、マスメディアなどの多様な視点から解明している。

 したがって執筆人も、憲法の専門家だけでなく、編著者が哲学者とジャーナリストだし、ほかに経済アナリスト、映画監督、歴史学者が集まり、コラムにも作家、漫画家、医師、元兵士、ジャーナリストなど幅広い分野のかたがたが寄稿している。

 第V部の35の「Q&A」は、「9条を変えたらすぐ戦争になるの?」「誰が、なぜ、何のために戦争をしたいのですか?」「本当に、日本にも戦争をしたい人がいるの?」など、素朴な疑問に答えてくれる。

 輸出産業を中心とする日本の産業システムのもと、円高を抑えるためにドルを買い、そのドルで米国債を買い、為替差損を防ぐためにもまたドルを買い、いまや80兆円もの米国債を日本政府が保有するにいたった政策が、大きな赤字をかかえるアメリカを支えている日本の姿も見えてくる。
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06,08,05 『考えてみれば不思議なこと』(池内了著、晶文社) 
この著者によるこの種のエッセイ本は、読まないと損をする、ぐらいに思うほど私は池内ファンである。短文のなかに、科学的知見に裏づけられた凝縮した考え方がなにげに盛り込まれているのが好きなのである。

 このエッセイ集も、「もっと軽やかに科学にまつわる日常の会話を楽しみたい」と書いた「@ 考えてみれば不思議なこと」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の旅をする間に目にする星座や銀河の話を天文学で解説し、賢治の心情や著者の見方で味付けした「A 賢治と宇宙の旅に出よう」、そして宇宙史における地球に焦点を当て、人間が宇宙の必然の存在であることを考えさせる「B 私たちは宇宙の子ども」、最後は、「科学をもっと身近に引き寄せ、文学を科学の香りでくる」もうと書いた「C 天文学者の書読(ふみよ)み」、といった構成。

 「私たちは宇宙の子ども」のなかでは「文化論」を展開し、「文化は、語り継がれ、書き継がれて、人類全体の財産」であり、「文化こそが、人間を他の動物と区別できる決定的な側面」だが、「ヒマ無く、しょっちゅう働き動いていては、文化は生まれません。『ヒマ』とは、ぼんやりする時間、あれこれ想像する時間、そして自分を表現する時間のこと」、「そのような時間こそ、人間が人間らしく生きるもっとも大切な時間」の話は無条件に納得。

 大事なのは、「自分を表現する時間」だと思う。こんなことを書いている時間もまさにその時間だと、私は思う。

 なるほどと思ったのは、「生物の進化は、その時代の主流の生き物ではなく、弱いもの、排斥されたものが主役になって進」んだ、という指摘。

 「海から陸へ進出した生物は、海の中では強い種属でなかった」からこそ「生き残りをかけて陸へ出て」きたのであり、「強い種族は一番いい場所を占領していて、動く理由がない」。

 「人間社会も同じではないでしょうか。エリートは社会を動かしているだけで、社会を変える原動力はむしろ弱い庶民なのです」。
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06,08,02 『若者に伝えたい韓国の歴史』
(李元淳[イ・ウォンスン]他著、君島和彦他訳、明石書店)   
04年11月が初版。「翻訳者あとがき」によればこの本は、韓国人研究者が、最初から日本の高校生や一般の市民の方々に読んでもらうことを目的に書いた韓国史で、今までになかった本、とのこと。

 韓国と日韓文化交流の歴史について大きな流れを把握してほしいとの著者たちの願いから、手軽に読めるように、事件名や人名、地名などはなるべく避け、簡潔に、要を得て書かれている。

 3人の韓国の著者は、韓国のかなり多くの人びとの考え方を代弁している思う、とは翻訳者の言葉だが、韓国人の歴史認識を知るうえでは大変参考になると思う。

 私もあまり認識になかったのは、豊臣秀吉による1592・1597年の「文禄・慶長の役」。韓国では「壬辰(イムジン)・丁酉倭乱(チョンユウェラン)」というらしいが、本文では「明に侵攻する道を借りるという口実で朝鮮に侵略戦争を起こした」と書かれている。

 「戦争か出兵か」というコラムでは、「7年もの長期間にわたって、戦乱が続き、2回で30余万人以上の軍隊を動員して他国を攻撃し、戦場になった朝鮮の国土を荒廃させ、莫大な朝鮮人の人命を損傷し、数万の朝鮮人を日本に拉致し、多くの文化財を略奪していった深刻な略奪戦争であった点で、これらを単純な出兵とごまかすことはできない」、「突然他国を攻撃した日本の侵略戦争だったのである」ときわめて明快である。

 ともかく、「日韓両国民は、隣国の歴史と文化を偏見なく理解して、互いの事情を勘案しながら、交隣をたしかなものにする努力が必要」(「終わりに」)であり、グローバリズムとか国際貢献を語る大前提だと私も思う。
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06,07,30 『どう拓く日中関係』
(加藤周一他著、かもがわブックレット)
副題は「政冷経熱の現状と『文温』の可能性」。

今年1月に大阪で開かれたシンポジウム「「日中関係の発展に文化は何ができるか」の記録である。

 シンポジストは4人で、それぞれの提言(報告)は、加藤周一「日中関係の現状と背景」、王敏(ワン・ミン)「混成文化の昇華を」、王暁平(ワン・シャオピン)「日中交流史に学ぶ」、加藤千洋「激動の中国をどう伝えるか」。

 「文温」というのはもちろん新造語。「日中間の冷え込んだ政治のもとでの熱い経済関係」のことを「政冷経熱」というのだろうから、「文温」とは「温かい文化交流」ぐらいの意味だと思うが、「序」を書いている中川謙・帝塚山(てづかやま)学院大学教授によれば、「文の温もり」と読んでもいいし、「文化の体温」と解釈するのもかまわない、とのこと。

 加藤(周)さんが、2000年に及ぶ日中関係のなかで、日本に対する中国の文化的影響は圧倒的に強いが、「軍事力を伴わない文化的影響力の大きさという日中間の伝統」は、「世界史上、特殊」であり、尊重したほうがいい、という指摘している。「漢字文化圏」の提唱との関係でも大事なことだと思う。

 また「日中問題や歴史観について日本の国民の意見が割れているという事実」を、中国の市民に理解してもらうことは、日中友好に現実的に役立つ、との指摘もそうだ思う。

 別の加藤(千)さんは、テレビ朝日系「報道ステーション」のコメンテーターとしておなじみだが、「メディアがナショナリズムを煽るようなことは慎重であるべきであり、控えるべき」と、報告の最後に強調しているが、まったくそう思うし、「日本の新聞記者やジャーナリストは中国人民のなかに入れ」との呼びかけに、マスコミはこたえてほしいと思う。

 ところでこの本は、「シンポジウム」と「パネルディスカッション」を同じ意味で使っているように見えるが、違うのでは?
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06,07,24 戦争のほんとうの怖さを知る財界人の直言』
(品川正治著、新日本出版社)
著者は1924年生まれで、日本興亜損保(旧・日本火災)社長・会長をつとめ、91年から相談役。93〜97年には経済同友会副代表幹事・専務理事をつとめた財界人。

 著者は、「平和憲法をもっている国の経済はどうあるべきか、平和憲法の価値を実現する経済システムとはどういうものか」という問題提起が必要だ、と強調する。

 その根底には「日本は平和憲法を守りきって、平和憲法をもつ国としての経済を力強く歩んでいくこと」ができるし、経済が国民生活に従属した「本来の経済」に立ち返るときが来た、との認識がある。

 政治に対しても、政治は「企業社会のものではなく、市民社会のものであることをきもに銘ずることが決定的に重要」で、「それが民主主義の原点」と、きわめて明快である。

 こうした発言を財界人として発することは勇気がいることだと思うが、著者によれば、「私の考えが異端でないと思っている人はまわりにいくらでもおり」、「自分では言えないが、もっと言ってくれという人はたくさんおります。私は決して孤立しておるのではありません」とのこと。

 だから、自分たちのビジネスチャンスを拡大するために、武器輸出三原則の緩和を提言したり、憲法九条を「改正」して集団的自衛権の行使を明記するよう求める報告書をまとめるような財界に対し、「同じ経済界の一員として、彼らの無節操振りを恥ずかしく感じております」という言葉もかなり重い。

 本書冒頭では、「現実の戦闘に参加し、ほんとうの飢えも経験した兵隊」としての戦争体験をありのままに語っている。

 また私があらためて目を見開かされたのは、「生活もよくし、衛生もよくし、治安もよくし、インフラを整えて、国民の高齢化を実現してゆくというのが政治」であって、「高齢化」社会が問題であるかのように言い、長寿や高齢化が目標でなくなったら、政治とは何だ、という指摘。

 まったくそのとおり。 
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06,07,24 『心脳コントロール社会』(小森陽一著、ちくま新書)
「心脳」(しんのう)というのは、「人間の心とは脳が活動することである」という脳科学的認識を前提にした認知神経学に基づく専門用語。

 そしてまた「心脳マーケティング」という言葉があって、これは、ある商品を買わせるため、ブランドイメージを創り出し、そこに消費者の購買意欲を方向づける手法。

 すなわち、最大の問題意識は金もうけ。だから、「心脳」操作にだまされないためには、その操作に使われている言葉によって、誰が得をするのか、誰にとっての「実利的なこと」なのか、どのような「政治的、経済的」な力関係の中で、誰が「は権」を獲得するのか、ということを考えることが大事だ、と著者は強調する。

 ところで、1991年の湾岸戦争時、「油にまみれた水鳥」が世界中に映像で流され、アメリカ政府が「この油はイラク軍による油田攻撃によるものだ」と発表し、その年の内にその発表はウソで、アメリカ軍の空爆によるものだったことが明らかにされたことをおぼえているだろうか。

 私は最初の発表で、「イラクはアメリカが戦争をしかけるための絶好の口実を作ってしまったなぁ」などと思い、その後のウソの検証は「やっぱりそうか」と思ったように記憶しているが、そのウソの検証が大きく報じられた記憶はない。

 ともかく著者は、2000年から数年間、大学新入生に「メディア論」の授業の際、この「油にまみれた水鳥」の記憶調査をした。

 そしたら、91年当時、小学校低中学年だった学生たちの80%以上が「油にまみれた水鳥」のことをおぼえており、その過半数、そしてイラク攻撃が始まった2003年は7割以上が「イラク軍の油田攻撃によって流出した石油によるもの」と考えていたそうである。

 ウソがホントとされてしまった「大衆化された社会的集合記憶」である。

 いま街中には「テロ警戒中」看板があちこちに立てられ、先日たまたま東京の山手線に乗ったら、「テロ警戒中」と車掌が放送でしゃべっていた。

 知らず知らずに「心脳」は敵と味方という二項対立におちいり、思考停止する「社会的集合記憶」だけが残るのではないか。

 「なぜ!?」と問う心は、やはりきたえ続けないとならない。

 ちなみに著者は近代文学の研究者だが、文学研究でも使われる人文社会科学の学際的概念が「心脳マーケティング」や「心脳」操作の重要な道具として使われていることが、この著書を書いた理由、とのこと。

著者はまた「九条の会」の事務局長でもある。

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06,07,13 『地方財政論』(関野満夫著、青木書店)
 地方財政を学ぶことは、私にとっては議員の仕事上不可欠だが、著者がいうように、「地方財政論は、単に大学の一科目として学ぶというだけでなく、国民一人ひとりが主権者ないし納税者さらに生活者という現実感覚をもって考えるべき課題」といえる。

 そういう意味では、義務教育段階から、地方財政についての適切なカリキュラム化が必要といえる。

 とりわけ現在は、膨大な額に達する(06年3月で205兆円)地方財政赤字、「三位一体改革」という名の、地方切り捨てといっていい地方財政構造改革、市町村合併の進行と道州制の検討など、すべてが住民の暮らしに直接に影響を与える。

 これらの住民にとっての政治経済的意味と問題点を解明することも地方財政論の仕事といっていいはずだから、なおさらである。

 本書は、従来の地方財政論教科書の標準的構成にならいつつ、理論・制度・歴史・政策などに総合的にふれ、日本経済や地域経済の動向の中で地方財政をとらえ、なおかつコンパクトにまとめることに留意したという労作。

 これから個別問題の課題を深めようと思えば、やはり全体像をコンパクトにつかめるこうした著作はありがたい。

 自治体の予算にしても、住民の暮らしに直結しているわけで、住民要求を予算に制度的・恒常的に反映させるしくみ、予算執行による事業効果の客観的評価と次の予算へ反映させるしくみ、予算の真の効率化につながる予算編成のありかた、など、住民の視点で見たときの課題は多い。
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06,07,12 『ごみ有料制の現状と政策争点』(田口正巳著、本の泉社)
 日ごろ、何気に買物し、何気にゴミを捨てる生活に慣れてしまっていたら、このゴミ問題は、私たちの暮らしそのものどころか、子々孫々にとって重大な問題として立ちはだかってしまった。

 けっきょくこれは、ごみを大量に生産する社会を前提に、ゴミの排出・収集後の対応に市町村が終始させられ、しかもそのゴミを施設で処理・処分する施設処理に終始させられてきたことから生じてしまったのではないか。

 そのためにゴミ問題は、「環境問題」「施設問題」「財政問題」「資源問題」、ひいては「社会経済的・文化的な問題」として向き合わざるをえない問題となった。

 解決の基本的方向としては、環境汚染原因物質の生産・販売・排出を発生源である経済活動から規制・抑制・管理することであることは間違いないと思う。

 そのためには、「大量廃棄型社会」とは決別して「循環型社会」を構築し、ゴミを生産する事業者に対して「拡大生産者責任」を追及し、その視点で、ゴミ政策や廃棄物法制度を見直し、再構築するはずではなかったか。

 住民に対して、安易に新たな手数料や費用負担を課すやりかたは、ゴミを生産・販売・排出する責任を排出者・住民に転嫁するだけの話ではないか。

 私たち住民は、もう一度、家庭にごみを供給する事業者に対して廃棄物の適正処理まで責任を課す「拡大生産者責任」の視点・原則を価値観として据えないとならないと思う。
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06,07,11 『BRICs 新興する大国と日本』
(門倉貴史著、平凡社新書)
 「BRICs」(ブリックス)というのは、ブラジル、ロシア、インド、中国の英語の頭文字をつなげた造語。名付け親は、アメリカ証券会社大手のゴールドマン・サックスで、2003年10月の個人投資家向けのレポートで初めて紹介したとのこと。

 以前から私は国際情勢、とりわけ経済・金融情勢については、チンプンカンプンもいいところで、県議会議員になってからも、頭は県政中心に考えるようになり、意識的に勉強しなければ、国際情勢からますます取り残される環境にある。

 そこでとりあえず本書を手にしたしだい。

 アングラマネーや闇経済をテーマにした著者の本を手にしたことはある(『日本アングラマネーの全貌』『偽造・贋作・ニセ札と闇経済』、いずれも講談社+α新書)。

 BRICsの高成長のメカニズム、中産階級の台頭と消費実態、資源、軍事力、国際会議での影響力、日本との関係の現状と先行きを分析している。 

 また、ポストBRICsとして注目されている南アフリカ共和国、エジプト、ナイジェリア、メキシコ、トルコ、中東欧三か国(ポーランド・チェコ・ハンガリー)、インドネシア、ベトナム各国の最新情報も紹介されている。

 月刊誌『経済』(新日本出版社)が8月号から新シリーズとして「BRICs研究」を始め、なにかと注目が集まっている。
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06,07,08 『雑学図鑑 知って驚く!! 街中のギモン110』
(日刊ゲンダイ編、講談社+α文庫)
たまの息抜きである。

 この種の「雑学」本は、90年代前半を中心にずいぶん買いあさった気がする。身近なことでありながら、なぜそれがあるのか、とか、そうなるからくりはどうなっているのか、など意外にぜんぜん知らないことや説明できないことがたくさんあることを気づかされたおぼえがある。

 まぁ、なかには「知っててどうなるの?」みたいな疑問もあるが、ともかく「なぜ?」と思う心から人間は成長すると思うから、この種の本も面白いと思う。

 戸籍法上の届け出がすべて24時間受け付けになっている理由や、飛行機の乗降口が左側になっている理由や、そうめんの束に色付き麺が入っている理由など、知ってみたいと思いませんか?

 タクシーがドアミラーでなくてフェンダーミラーが多いわけや、百貨店の1階に化粧品店が多いわけ、それに2000円札の行方も知りたいところ。

 つい先日、買物をして2000円札を出したら、店員からなにやらとんでもないものをつかまされたような顔をされて、私もびっくりした。
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06,07,02 『障害者自立支援法と子どもの療育(増補版)』
(障害乳幼児の療育に応益負担を持ち込ませない会、全障研出版部)
 障がいのある子の理解と取り組みで大事なのは、「障害と発達と生活という三つの視点を総合的に組み合わせ、統一して子どもを見て、課題設定をし、子どもに対する働きかけをすること」(本書第4章・茂木俊彦「豊かな発達と生活をつくるために」)と著者の一人は強調する。

 その子の障がいにしっかり目を向けながら、人間の発達の道筋の中でどこまで到達し、どういう課題をもっているか、その子の生活の歴史と生活の実態がその子の障がいの状態や発達の状態にどんな影響をもたらしているか、現在のその子の姿を総合的にとらえてこそ、発達の課題、取り組みの課題がはっきりする、というわけである。

 障害者自立支援法とかかわらせると、こうした総合的取り組みが壊されないか、と警鐘を鳴らす。

 本書は、障がいをもつ子どもたち、とりわけ乳幼児期にある子どもたちの発達保障に、「応益負担」がぬきさしならない影響をもたらすことから、児童福祉法にかかわる部分は別途の検討が必要だとして「会」を呼びかけ、国会・厚生労働省に働きかけてきたかたがたによるものである。

 今年(2006年)10月施行へ向けた政省令の準備やその改善、今後三年間に予定される施設のあり方の議論に積極的に参加するため、各地の学習会などで活用されることを願って出版されたものである。
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06,06,08 『地震と噴火の日本史』(伊藤和明著、岩波新書)
 NHKの科学番組ディレクターや解説委員を著者がされていたときの取材をもとに、祖先が書き残した記録や、大地に刻みつけられた自然の証跡などから、過去の地震の姿や噴火の特性、それらによって引き起こされた災害像の復元を試みたのが本書である。

 「日本書紀」に記された西暦416年の日本最古の地震から、1896年に三陸海岸をおそった大津波など、19世紀末までの顕著な事例を取り上げている。

 20世紀以降については、情報量も多く、それだけで一冊の本ができるほどなので、別の機会にゆずりたい、とのこと。

 私の不勉強で意外だったのは、「現在の日本で、もし内陸直下型の大地震が起きたならば、もっとも危険な都市は京都ではないか」という著者の心配。

 記録では、「方丈記」(鴨長明)に「海(琵琶湖のこと)は傾きて陸地をひたせり」と記されている1185年の地震、「徒然草」(吉田兼好)に「正和のころ、南門は焼けぬ、金堂は、そののち倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし」と記されている法成寺などに被害をもたらした1317年の地震、豊臣秀吉が伏見城から命からがら避難した1596年の地震(伏見城が完成し、秀吉が入城したのは1594年らしい)、江戸時代になってからも1662年、1830年と大きな災害をもたらす地震があったとのこと。

 いずれにせよ地震の活動期に入った日本列島。安全・安心に暮らせるまちづくりに予算と知恵を出さないとならない。
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06,06,07 『発達保障とそ教育・福祉労働』
(二宮厚美著、全障研出版部)
 5〜6年前のことだが、『どうする日本の福祉』(福祉倶楽部・福井典子編、大月書店)という本を読んだ。このなかで、本書の著者が「新自由主義的福祉改革の構図」をテーマに書いており、「福祉は市場になじまない」理由を解明している。

 結論だけいうとそれは、福祉労働にはその専門性のなかに公共性を導き出す根拠が宿っており、その仕事そのもの=労働権を公的に保障する必要がある、というものであった。

 生きた人格が相手となる教育・福祉の労働は、コミュニケーションがなくてはならない媒介として成り立つ労働である。

 そしてコミュニケーションは、人と人との間の相互了解・合意にはじまり、相互了解・合意に終わるという点に特徴がある。

 この了解・合意が本質にすわる、ということは、たとえば教育労働は子どもの発達ニーズの発信からはじまる、ということである。

 つまり、教育労働を労働過程としてみれば、労働の主体は教師で対象は生徒だが、コミュニケーション過程としてみると、発達ニーズの主体は生徒であり、それを受けとめる教師は受信者、ということになる。

 この主客逆転が起こるところから、コミュニケーション労働の専門性が生まれるが、発信に対する応答・了解・合意を前提に進められる労働だけに、専門家の自由な判断、労働現場の自治が不可欠になる。

 というと、本書は経済学者による抽象的命題の話かというとそうではなく、「むつかしいことはやさしく、やさしいことは具体的に、具体的なことは面白く」という発想法で書き進められている。
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06,06,04 『人物で語る物理入門』
(上)(下)(米沢富美子著、岩波新書)
 中学生か高校生のころにこの本を読めれば、物理をもっと好きになっていたに違いない、と思える本である。
 
 もしかすると、岩波書店の内部で、岩波ジュニア新書の編集部は、岩波新書の編集部に企画を取られてしまった、とくやしがっているのではないか、と思えるほどである。

 「人間の営みとしての物理」を入口にして、ともかく「物理の楽しさを伝えたい」、というのが本書執筆の動機、と著者は言い、「楽しい物語を聞くような気持ちで、知らず知らずのうちに物理も学べてしまう、そういう本になっていれば嬉しい」と記しているが、十二分にそういう本になっていると思う。

 ギリシャの哲人=アリストテレス、アルキメデス、プトレマイオスの第1章から始まり、「究極の素粒子」クォークを提唱したマレイ・ゲルマン(1929年〜)を取りあげる第15章までの構成だが、取り上げた人物にかかわるテーマは、著者自身が書き終えてから気がついてびっくりするほど、「見事なばかりに大学の物理学科での授業科目をカバー」することになった、とのこと。

 それぞれの人物が、どんな暮らしをし、どんな人間関係があり、人生をどう楽しんだか、あるいはどんな悩みをかかえていたか、などについても、「米沢流」に縦横に語られる。

 もちろん、わが湯川秀樹・朝永振一郎も、第13章「日本の物理学の揺籃期」で取り上げられている。

 ちなみに著者は、大学入学後すぐに、大胆にも湯川氏に面会を求め、湯川氏は会議の合間の5分間ほどを都合してくれ、いろいろな助言をしてもらったそうである。そんなことも無邪気に語っている。

 「どんなにすばらしい本を読んでも、どんなに優雅なコンサートに出かけても、物理より面白いものはない」と著者は言うが、そんな思いが全章にほとばしっている。
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06,05,31 『売られ続ける日本、買い漁(あさ)るアメリカ』
(本山美彦著、ビジネス社)

 著者は金融と倫理を専門とする経済学者で京都大学大学院教授。本書がめざすのは、アメリカからの強力な圧力のもと、アメリカ寄りの法律が次つぎと作られる過程で、政治家・権力の周囲にうごめく取り巻きの暗躍ぶりを告発することである。

 暗躍するトップ層の導きで「民」が甘い蜜に群がり、その蜜を既得権益に変え、そして「真の民」=市民が被害者になる。

 「公の世界」を卑しい私心で食い荒らそうとするアメリカ側の究極の獲得目標は、日本の巨大な「医療と医療保険」市場であり、その原資を確保するために「郵政民営化」があったことは、明らかだ、と著者は断じる。

 2010年までに日本市場を「完全開放」させることを決めたアメリカによって作られたしくみはこうである。

 アメリカの企業代表者をふくむ専門家会合でアメリカ側の強い意志が日本側へ伝えられ、その会合の成果が毎年10〜11月の『米国政府による日本国政府への要望書』(『年次改革要望書』)に盛り込まれる。

 日本政府はその要望にこたえるべく法律を整備するが、それが適切かどうかを翌年3月に米国通商代表部『外国貿易障壁報告書』が判断する。

 この報告書の脅しによって日本政府は米国政府の要望を満たすべく「改革」を急ぐ。その勤務評定が『「規制緩和および競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブ」共同報告書』であり、毎年5月前後のサミット中に開催される日米首脳会談で両首脳に渡される。

 同時期に『日米投資イニシアティブ報告書』も両首脳に提出され、さらに『日米間の期成改革および競争政策イニシアティブに関する日米両国首脳への報告書』も発表される。

 日本はこれら5つのレポートによる水面下の圧力で、着々とアメリカによって買い漁られる、というのである。
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06,05,25 『食料の海外依存と環境負荷と循環農業』
(鈴木宣弘著、筑波書房)
 本書のタイトルにひかれ、分量もブックレットぐらいなので読んでみたが、なるほど、こういう考えと分析手法で農業を考える見方もあるのか、と目を見開かされた思いである。読むエネルギー費消の値はやや大きかった。

 環境に対して供給される窒素の量が、環境が適正に吸収できる窒素の量を上回ると、その過剰な窒素は地下水に蓄積されたり、野菜や牧草に過剰に吸い上げられるそうである。

 そういう野菜や水を人間が食べたり飲んだりすると、酸欠で乳幼児が死亡する危険が高まったり(欧米では「ブルーベビー」として恐れられている)、消化器系の発がんリスクが高まるなど、人の健康に直結するらしい。

 日本におけるこの窒素収支を、本書ではコメを事例に、北東アジアで農業を取り込んだFTA(自由貿易協定)が推進された場合、いろいろな条件を設定して試算している。

 ともかく、現状がすでに食料由来の窒素を農地だけで受け入れるとした場合の適正量の2倍を超えており、現状の改善は欠かせない課題である。

 さらに循環型農業推進につながるものとして、酪農での自給飼料生産拡大・糞尿処理施設の整備の二つの政策目標を事例に、農家の経営判断メカニズムを検討し、誘導できるような具体的方策のアウトラインを示している。

 また、久留米市での「カブトムシ特区」について、「家畜排泄物法」の適用除外として認定された意義を、アメリカの例を参考にしながら、考察している。
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06,05,19 『子どもを大切にする国・しない国』
(浅井春夫著、新日本出版社)
 本書の最後に著者は、この国の希望は、子どもの生活にかかわる多くの人たちがそれぞれの持ち場で真摯に奮闘している姿だ、と実感を述べている。

 その人たちとは、保育所・学童保育・幼稚園・児童福祉施設・児童相談所・保健所などや、子育てサークル、子ども虐待防止の団体、子育てしている保護者などでろ、その一人ひとりが希望そのものである。

 こうした希望を真に実らせ、ふくらませる社会・政治がいまほど必要なときはない、と私も思う。

 ところが、@「親の労働条件の悪化」が子どもの貧困を生み、しあわせ格差を広げている、A「官製市場の民間開放」の名のもとに、保育の市場化促進政策がすすめられている、B戦争をする国にむけての“法的な整備”として、憲法・教育基本法「改正」、という、“子どもを大切にしない三点セット”が現実に進められ、準備されているのが日本の現実である。

 本書はこうした問題意識を前提に、6章だてで、どの章からでも読める構成になっている。

 子どもを大切する国への道をはばむ新自由主義政策、充実子どもを生み育てやすい社会の柱である労働政策と家族政策、「保育の質」の向上、子ども虐待、家庭・家族、親子関係のそれぞれについて、現実・現状分析と問題提起をしている。
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06,05,05 『生命の起源・地球が書いたシナリオ』(中沢弘基著、新日本出版社)
 生命の起源に関するこれまでの「定説」や「常識」は、先験的に「太古の海は生命の母」との仮定に基づいており、それが呪縛となって正しい考察をさまたげているようだ、と著者はいう。

 「太古の海」が穏やかな海であっても、熱水噴出孔であっても、「生命の母」と先験的に信ずる理由はない、というのである。

 著者が提案するシナリオは、プレートテクトニクスやマントルプリュームなど、二十世紀から二十一世紀初頭にかけて、地球科学が急速に進歩し「ダイナミックに流動する地球観」を前提に、その流動が有機分子をめぐる環境の圧力となって、有機分子の態様・存在形態が自然選択され、生命の起源にいたった、というものである。

 そしてその生命は、海洋に出る前に、地中ですでに発生していた、という。

 四〇億〜三十八億年前、微惑星・隕石の海洋衝突によって「有機分子のビッグ・バン」があり、親水性の有機分子だけが生き残って海洋堆積物にふくまれ、堆積物の圧密過程で高分子に進化し、プレートテクトニクスによって陸化する過程で熱水に遭遇し、大方の高分子が分解して消失したなかで小胞状の組織を構成した高分子の組み合わせが生き残り、生命の発生となったと論ずる。

 たいへん興味深く、今後の研究成果を待ちたいものである。

 著者も、「有機高分子が組織化して小胞を構成する段階、そして小胞が、いついかなるメカニズムで“生命”を宿したのか、生命起源シナリオの肝心の瞬間」などについては、「データの蓄積を待って、もっと詳細に論ぜられるべき今後の課題」としている。
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06,05,03 『思春期の危機をどう見るか』(尾木直樹著、岩波新書)
 思春期は12〜21歳の時期をさし、@前思春期(小学校高学年)A思春期初期(中学生)B思春期中期(高校生)C思春期後期(高卒後)と分けられるらしいが、私は思春期について考えたことはあまりなかった。

 子どもたちと接し、子どもたちの目線でともに育つことを仕事とするのでないと、やはりなかなか機会がないと思う。

 それはともかく、“疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代”といわれる思春期は、誰でも心が激しく揺れ動き、大人として自立するにはここをくぐりぬけて初めて、成熟した大人になれる、というのはそのとおりだと思う。

 だから思春期は、成長を「加速化」させる側面とともに、「危機」をもはらんでおり、だからこそ、大人としては、思春期にふくらむ自尊心を大切にし、主体性にまかせる寛容さと、激しい心の揺れにとことん伴走する忍耐強い愛情に満ちた柔軟性が不可欠だ、と著者は強調する。もちろん、非は非とする毅然とした姿勢も同様に不可欠である。

 ひきこもり、「学力低下」問題、ニート、少年による凶悪犯罪、子どもが被害にあう事件など、思春期をめぐるこうした今日的問題をどう見て、解決の糸口がどこにあるか、いかなる場合も「子どもの目線」に立つ原則をゆるがせにせず、具体例を提示しながら解明を試みたのが本書である。

 はっきりしていることは、子どもたちが社会のあらゆる動きについてよく考え、大人とパートナーシップで社会の成員として、多様性を認めつつ、自分の意見や希望をしっかりともち、一人の主権者としての自覚と責任を育てることである。

 そのことが、子どもたちにとって、未来社会への希望を切り拓くリテラシー(生きる手段となる学力)となる。
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06年後期06年前期12月11月10月9月8月7月6月青春

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