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生い立ち・・・5 |
■日本共産党とのであい 京大に入学してすぐに日本共産党と出会います。もとをたどれば1年前、最初の受験の下見のときに、たまたま民青同盟に加盟していました。 実質的な浪人中は、ときどき、民青同盟の人たちで集まって、励ましあったり、世の中から取り残されないように社会勉強しあったりしていました。民青同盟というのは、日本共産党と切っても切れない縁のある青年組織です。 4月の下旬に、日本共産党中央の幹部を呼んで、民青同盟京都府委員会などが主催して、京都府下の大学新入生を対象としたイベントがありました。 私もこれに参加し、京大の先輩たちから日本共産党へ誘われ、世の中のことを勉強するつもりで入党しました。よく、組織の一員になることで、「考えが固定される」とか「組織にしばられる」とかと言う人もいますが、私は、組織として蓄えている知識を吸収して、自分の生きざまに活かすきっかけにしよう、ぐらいに思いました。 この考えは、今も変わっていません。もちろん問題は「自分の生きざま」ですが、将来どんな仕事に就こうとも、多くの人がよりよく生き、生きていてよかったと思える社会にするために多少とも世の中にかかわること、とちょっとは考えていました。 どうしてこういう考えをもつにいたったかに答えるのはなかなか難しいと思います。直接的には1年前から民青同盟の先輩や仲間たちといろいろ話をする機会があったことです。 間接的にはおそらく、親の影響だろうと思います。親から直接に政治・社会の話を聞いたおぼえはないし、まして「自民党政治をやっつけて、共産党を応援しよう」などとさとされたことは一度もありません。 ただ、世の中のことを世の中の一員としてまじめに考えることや、日本共産党への偏見をもたなかったことは親の影響だろうと思うのです。 さて、日本共産党に入党する前から、大学教養部(1〜2年のこと)自治会のクラス委員を引き受けたりしていて、ともかく入学直後から忙しい思いはしていました。 とりわけ当時、私が関心を持ったのは、前年の1978年に浮上していた「有事立法」やアメリカとの間でのガイドラインなど、平和をめぐる問題でした。これを機会に日本国憲法や安保条約について勉強し始めました。 日本が保持する軍隊と憲法との関係について、中学生のときに棚上げしていた疑問にまじめにとりくむことができたと思ったのもこのときです。 私が在学した4年間は、政治が大きく右旋回した時期になっています。 「元号法」の成立、「社公合意」(社会党と公明党が安保・自衛隊容認、共産排除の連合政権構想)、環太平洋合同演習への海上自衛隊初参加、「日本を守る国民会議」(改憲勢力結集)結成、日米陸上部隊が初の実動演習、中曽根首相の「日本列島不沈空母」発言…。 その間には、米原潜が日本の船に衝突・沈没させて逃走したり、日米合同演習中の米軍艦が日本漁船のはえ縄を切断する事件がたて続けに起こったときもありました。 ■はじめての選挙活動 ところで、京大に入学して最初にとりくんだ選挙が1979年10月の総選挙でした。当時ままだ「中選挙区」で、大学がある選挙区は「京都1区」、定数は5人です。なんとこの選挙区で、日本共産党は2議席を獲得したのです。5議席のうち2議席を日本共産党が占める! 全国でも日本共産党推薦の2人を入れて41議席を得ました。 「これからの選挙のたびにこの調子でいけば、そう遠くない時期に日本共産党が政権の一翼を担える」と思ったのは私だけではなかったのですが、「政治を国民本位に変える」ことのきびしさを知ったのはそれからでした。 ソ連によるアフガニスタン侵攻があり、モスクワ五輪のボイコット、大反共攻撃のなかで衆議院が解散、大平首相の急死などがあり、41議席獲得した選挙から8か月後には29議席へ後退しました。ただし、全国的な得票数を減らしたわけではなく、国会議席へ結びつける難しさを知りました。 |
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