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生い立ち・・・3 | |
吹奏楽部の演奏会 | |
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■磐城高校に入学、吹奏楽部が生活の全ての中心 磐城高校では、それこそ吹奏楽部活動が生活のすべての中心だったと思います。コンクールで県の代表をめざすことだけではなく、人間関係とか、その他もろもろ。 高校に入学して、さっそく、中学で吹奏楽をいっしょにした友人たちと吹奏楽部に入りました。先輩たちにはたいへん失礼なのですが、あと2年は県代表は無理だ、ということが第一印象でした。率直に言えば、目標をもった練習ではないし、練習には来たいときに来ればいい、という感じでした。3年生はある程度の人数でしたが、全員そろっての練習というのは野球の応援日程が決まっているときやコンクール前ぐらいでした。 2年生は2〜3人でしたので、3年生が卒業すれば私たちの学年が主力にならざるを得ません。そのうえ、指導教官がいないので(音楽の教師は合唱部を教えていました)、生徒の自力によるしかありません。 そうすると、まずは部員全員が目標を持った部活動になるような部員集団をつくりあげること、つぎに目標をめざすには練習が基本であること、少なくともこの2つだけでもはっきりさせた吹奏楽部にしないと、県代表などおぼつかないと思いました。 もちろん部員数を確保することはその前提です。2年後を展望するほかにないな、とちょっと気が抜けたような、一方でやる気を内からわきたたせなければいけないような、ちょっと複雑な高校生活のスタートだったように思います。 1年のときに野球部が甲子園出場を果たし、予選からスタンドで「応援団」として応援しました。もちろん吹奏楽団としてです。甲子園ではベストエイトまで進み、3試合でしたが雨の影響で1週間ほど京都に泊まりました。 選手として甲子園の土を踏むことはできませんでしたが、小学生の頃からの「あこがれの甲子園」へ行くことができ、野球部と応援団のみなさんにはほんとうに感謝、感謝です。 ■吹奏楽部の部長に 吹奏楽部のほうでは、3年になると部長となり、いよいよ目標へ向かって全身全霊をかたむけることになります。部員の確保も現部員のつながりと力を借りながらすすめました。 3年ともなると、「進学」と「勉学」が優先されることもあり、部員確保もなかなか難しい課題でした。また、たまたま市内で音楽指導をしているかたが、部員のつながりでわが部の練習をみていただけることになり、きびしく指導していただいてほんとうに助かりました(今も現役で指導されています)。 ■福島県の代表に 県のコンクールは会津若松市でありました。結果発表まで会場に残れなかったので、いわきへ帰る途中、電車を乗り継ぐ駅で顧問の先生が電話で結果を問い合わせました。 磐城高校は県の代表に決まっていました。駅のホームで思わず始まった胴上げは、もう天にも昇る思いでした。当時(今もかもしれませんが)、東北大会の吹奏楽は全国トップレベルであり、あとはこれまでの練習の成果を大会で演奏しようという思いで、それ以上のことは望みませんでした。 吹奏楽のコンクールは県が9月、東北が10月末でしたので、ほかの多くの部はだいたい夏までに終えるのとくらべると、長丁場でした。それだけに受験勉強の時間の確保もしなければならず、とくに3年生たちには試練だったと思います(自分もそうでしたが)。 その数年後、磐城高校は全国大会で金賞を受賞するまでになりました。その後もさまざまな出来事を乗り越え、現在もそのレベルを保ってがんばっていると聞いています。 以前、東京都内で仕事をしていたころ、3年のときにいっしょに吹奏楽をした4人で何度か集まる機会があり、当時の話になると、「自分たちががんばったことが今につながってよかった」と話していたものです。 いわきへもどってから、吹奏楽の後輩に「先輩たちががんばってくれたから自分たちもがんばれた」と聞かされ、これほどうれしいことはありません。 ちなみに今の連れ合いとの出会いも吹奏楽でした。 |
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