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生い立ち・・・2
中学校時代の芋煮会

右手首が痛み中学では野球部入りを断念

 中学校(内郷一中)への進学を前に、悩ましい事態が起こり始めました。右手首が痛みだしたのです。手首の骨がいやにとび出てきました。

 受診しましたが、結論を言えば、通常に伸びる骨がとび出ているかのようなつながり方をしてしまったので、とび出た骨がいやならば削るほかにないし、削ったとしても今のような痛みはやむをえない、ということでした。

 なにせプロ野球選手をめざすのに、中学で野球部に入らずしてその夢がかなうはずはなく、この痛みと、自分の将来の夢との葛藤で、6年生なりに悩みました。

 けっきょく、野球は高坂団地チームで継続して、学校では入部しないことにし、野球にかかわれる部でも探そう、ということにしました。たまたま吹奏楽部への勧誘を、だれかれかまわず強烈に勧めにきた上級生がいて、ものはためしと思って練習見学へ行きました。

吹奏楽への関心

 実はこのとき、小学校では好きでなかった音楽 (とくに楽器演奏) であるということと、野球部の試合の応援ができるということとの間でここでも多少悩みました。ところが、簡単に言ってしまえば、30人を超える上級生たちの演奏練習を目の前で聞いて、その音量に圧倒されて感動してしまい、小学校からの友だち数人といっしょに吹奏楽部に入ることを決めました。

 「みんな中学に入って始めた人ばかり」との先輩のことばにも後押しされました。

 吹奏楽とはこの後、高校3年までつきあうことになりますが、これは中学での熱烈な音楽教師の影響が大きいと思っています。この恩師に今回応援してもらい、ほんとうにありがたく思っています。

 さて、中学生ともなると、1年生から試験の点数と成績をいやおうなく意識させられる感じがありました。その是非はここでは触れません。たまたま同じクラスで、しかも同じ吹奏楽部、そして試験の成績がつねによい女性がいました。

 私の試験の点数はいつも彼女の下だったので、「同じような生活をして、勉強時間も同じはずなのに、どうして彼女はいつも成績がいいんだろう」と不思議に思っていました。「中学の最初の時期は女の子のほうが成績はいいもんだ」という先生もいましたが、その理由がわかりませんでした。
 
 それはともかく、磐城高校へ行くには、成績がよくなければいけないことを知ったのは中学生になってからでした。

自然科学への関心は転校生からの刺激

 2年生になり、クラス替えがありました。このクラスが2年間続き、担任の先生とともに、きずなが強いクラスだったと思っています。この2年のときに、会津から読書好きの転校生が来て、私にとっての大きな転機になります。彼が私に、『相対性理論の世界』(講談社・ブルーバックス)という本を教えてくれたのです。それまで私は読書とは無縁だったし、本なんか読まなくても生きていける、ぐらいにしか思っていませんでした。

 ところがこの本はきわめて衝撃でした。これをきっかけに、「自然のからくり」を極めようとする研究者が世界にも日本にもいることを知ります。そして学校での勉強は、これらの研究の前段のそのまた前段なので、どの教科も一生懸命勉強することは大事なんだろうな、と思ったものです。
 
 社会科の教師の教えかたが私にとって興味深く、日本国憲法の全文をおぼえたものです。「長谷部、第○○条にはなんて書いてある?」なんて突然指され、即座に答えていたことを思い出します。このときに憲法9条と自衛隊の関係に疑問をもちましたが、この疑問を解消しなければいけないとの思いにはいたらなかったので、そのままにしていました。

吹奏楽部の部長に

 さて3年生になると私は吹奏楽部の部長におされていました。吹奏楽部も毎年コンクールがあり、県の代表になることが先生の目標でした(と、私は受けとめていました)。

 県大会で「金賞」を受賞しましたが、代表は市内の他校に決まりました。このときの先生の悔しさに満ちた顔やことばに、私は逆に、「こんなにも打ち込めることがあることへのうらやましさ」を感じたのです。はっきりいって、これで高校生活の目標が決まりました。高校の吹奏楽部で県の代表になることです。

陸上部の部員でもありました。

 ところで中学には、陸上競技大会が近づくと練習が始まる「陸上部」があり、私もその「部員」でした。大会が近づくと先生から声がかかるのです。3年生では200m走とリレーに出場しました。

 200m予選では、たまたま県記録保持者と同じ組になり、ゴールが近づくほど加速するその力強い走りに圧倒されたものです。とてもかないませんでした(彼とはその後高1で同級となり、50m走を2人で走り同タイムでした)。
 
 それでも学内では、短距離走はトップクラスだったので、「世間の広さ」を感じます。もっとも、陸上の世界ばかりでなく、野球や吹奏楽でも、試験の点取りでも「うえにはうえがある」ことは知っていましたが…。高坂団地の野球チームは、ソフトボールから軟式野球に「格上げ」され、3年になってからまた優勝することができました。

能率のあがる勉強法を考え出す

 勉強のほうは、気持ちが集中できて、能率的だと思う方法を考え出しました。部活を終えて家に帰り、夕食後、お風呂に入ったら8時前には寝て、夜中の2時ぐらいに起きて朝まで勉強するのです。自分で時間割を決め、学校での進行具合からちょっと前を行くような各教科の進行目標表をつくったのです。これはけっこう効果がありました。

 中学2年の途中からこのライフスタイルを続けました。もちろん1日たりともこれをくずさない、ということではなく、友だちと遊ぶ関係など柔軟に対応したつもりです。そのひとつに「団地会」と称する友だち集団があり、5〜6人だったと思いますが、月に1回の土曜日、「長谷部の家で勉強する」ことを口実に集まって、けっこう楽しく時間を過ごしていました(当時、私には家の裏にプレハブがあてがわれていました)。

 中学の卒業文集をみると、「中学生活はブラスバンド生活と重なる」と書いており、今とはちょっと印象が変わっています。
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