トップリンクメール
県議会奮戦記 かけはし 政策・提言 相談 プロフィール あつしのOFF フォーラム

かけはし >>> 「日本国憲法」ってなんだったっけ?     1 から 12

「日本国憲法」ってなんだったっけ?   12  
民主主義というのは、つまるところ、「手づくりの精神」です。「ものごとを自分たちの手でつくる」、ということでしょう。

 憲法第13条の「幸福追求に対する国民の権利」は、その精神をもっともよくあらわしています(No.3 参照)。幸福は外から自然にやってこないので、いろいろな困難、悲しみ、つまずきを乗りこえて幸福をつかみとる、たたかう精神を国民はもつように、憲法は要請しています。

 憲法第12条が「国民の不断の努力」と念押ししているのも、国民の主体的努力が重要だからにほかなりません(No.1とNo.2 参照)。

 国民主権は、民主主義のこの精神を政治制度にあてはめたものです(憲法前文、第1条)。ただの「国民のための政治」ではだめで、「国民による政治」が民主主義の原則です。

 そうすると国民は、一人ひとりが政治の主人公なので、「政治的中立」ということはありえません。AとBという人が争っていて、その争いに関係ない第三者のCという人を「中立」とはいいますが、政治についてはすべての国民が当事者なので、第三者というのはありえないのです。

 国民がだれでも憲法上の権利を行使し、政治活動するのは常識である、というのが、日本国憲法の立場です。この考えをひっくりかえして、為政者いいなりのものを言わない国民づくり、国づくりをめざす憲法は断じて拒否しましょう。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   11  
 日本国憲法第24条。「@婚姻は、両性の合意にのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。A配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。

 これを生みだす力になったのは、GHQ民政部職員で、当時22歳のベアテ・シロタ・ゴードンさんが起草した「婚姻と家族とは…男性の支配ではなく両性の協力に基づくべき」とした条文でした(ベアテ・シロタ草案第18条)。

 「男性支配の否定」の精神は24条に生きています。女性による男性へのDV(ドメスティック・バイオレンス)がないわけではありませんが、「男性支配の否定」がまずもって「男性の家庭内暴力」の否定を意味することは明らかです(家庭内の「男性支配」だけが問題だったわけでもありませんが)。

 わが憲法は、近代社会が残した二つの「正統な暴力」である私的暴力=DVと公的暴力=軍隊を禁止したのです。つまり日本国憲法は、社会全体を非暴力化するためのプロジェクトだ、ということがわかります。

 この人類史的プロジェクトを中途で放棄してはならないのです。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   10  

 日本国憲法第26条。「@すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。Aすべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。

 「教育を受ける権利」の明文規定は、資本主義諸国の憲法では日本が最初です。フランス革命期以来の「権利としての教育」確立へ向けた「さきがけ」と評価されるゆえんです。

 「権利としての教育」ですから、憲法の基本的人権の規定と重ね合わせて読むことが大事です。そうすると教育は、幸福追求の権利(13条)、思想・良心の自由(19条)、信教の自由・政教分離原則(20条)、表現の自由(21条)、学問の自由(23条)、法の下の平等(14条)などと不可分一体です。

 平和国家・福祉国家を憲法はめざしていますから、将来の国家・社会の「形成者」を育てる教育は、9条・25条とももちろん不可分です。

 ここでふれておきたいのは「徳目」の押しつけとの関係。憲法19条は、内心における精神活動の自由を保障し、国家が特定の規範を「公認」したり「推奨」したりすることを禁じています。あたりまえです。道徳は、人間が個人として自らつくりあげる良心そのものであり、自発的に遵守されることが基本です。

 道徳規範を「教育目標」として公定・公認し、教育現場で子どもたちに押しつけることはもちろん憲法違反です。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   9  
5月14日、「改憲手続法」が自民・公明の与党だけで強行採決されました。改憲の実行の条件が、改憲派につごうよく整備されたことになります。

 国民の8割が必要と認める最低投票率を定めていないので、2割の投票率であれば1割の有権者の賛成で「国の最高法規」を変えられること、国民の自由な意見表明が大前提なのに、500万人もの公務員、教育者の自由な意見表明を制限しうること、財界が金で憲法を買うことになる有料広告の問題など、話にならない、と言っていいほどの法律です。

 これほどぼろぼろなのに、与党が無理押しする過密審議に抵抗せず、採決日程に合意した民主党も、改憲を競い合う役割が鮮明になりました。

 安倍首相が「アメリカと肩を並べてたたかう」と正直に言うように、改憲の目的は、「アメリカと肩を並べて戦争をする国」をつくることにあります。つまり、「9条改憲」が改憲のターゲットです。

 アジアの二千万人の人びと、三百十万人の日本国民の犠牲のうえに、二度と戦争はしないという国民の深い思いがこめられているのが憲法9条です。

 数におごり、憲法と国民の力を見くびる政治家に、主権者の力で断固とした審判をくだしましょう。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   8  
安倍首相が言う「美しい国(うつくしいくに)」を、逆さに読むと、「にくいしくつう(憎いし、苦痛)」です。安部政権に対する国民の実感を言っているようです。

 それはともかく、「美しい国」のルーツは、1997年、改憲・右翼団体の総本山の「日本会議」設立大会での「美しい日本の再建」です。この団体は、「首相の靖国神社参拝の定着化」を主張しているように、「靖国派」の総本山でもあります。

 靖国神社はいまや世界各国に知られているように、日本の侵略戦争を「アジア解放のための正義の戦争」と信じ込むばかりか、その考えを国民に広めるのが使命だ、と言っている政治運動団体です。宗教施設などではありません。

 ましてや、日本会議は「美しい日本の再建」と言うわけですから、「正義の戦争」を遂行したかつての日本を「再建」したい、というわけです。

 そのうえ安倍首相は、「海外での紛争で米国と肩を並べて武力行使することは、憲法改定なしにできない」と主張しています。なにをかいわんや、と思いますが、いまの内閣は、18人の閣僚中15人が「靖国派」で占める異常な内閣です。

 侵略戦争の徹底した反省のうえに成り立っているのが日本国憲法であり、いまの国際社会です。これを安倍首相は「戦後レジーム」とののしって、「打破する」とさけんでいるわけです。
 彼らの野望を打ちくだきましょう。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   7      
安倍晋三首相は、「いまの憲法は占領時代に、連合国軍総司令部が日本に押しつけた」と主張する古典的「押しつけ憲法論」の典型のような人物です。

 「押しつけられる」という言葉は、本人が望まないことを強いられる場合に使う言葉です。はたして「日本」は「押しつけられた」のでしょうか。

 1946年3月6日、日本国民はいまの憲法のもとになる「憲法改正草案要綱」を初めて知りました。5月16日に召集された「第90臨時帝国議会」に「帝国憲法改正案」として提出されたものについて、「毎日新聞」が5月27日に世論調査をしています。

 戦争放棄に賛成が70%、象徴天皇制に賛成が85%。大多数の国民は、この憲法案ができる経過は知らされていませんでしたが、国民がその内容を知ったとき、できあがったものを日本国民は歓迎したわけです。こういう場合に「日本国民は押しつけられた」とは言いません。「奴隷解放」を「奴隷が押しつけられた」とは言わないし、「女性参政権」を「女性が押しつけられた」とは言わないのと同じです。

 明治憲法から大きく変えたくなかった当時の日本政府が押しつけられた、と言うのが正解で、安倍首相は、当時の日本政府と変わらない立場であることを、みずから国民の前にさらしているにすぎません。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   6      
20世紀初頭ぐらいまでは、戦争は自由で、そのためのルールづくりが戦時国際法として発達していました。
 ところが、第一次世界大戦後、国際連盟が設けられ、戦争の自由は否定されました。1928年には不戦条約が結ばれ、建前上は、戦争はもう許されない、という国際的合意までこぎつけました。
 にもかかわらず、世界は第二次世界大戦という悪夢を経験しました。二度と戦争を繰り返すまい、という世界民衆の願いは、「紛争の平和的解決」を基本的精神とした国連憲章を生み出しました。
 国連憲章はついに、武力による威嚇と武力行使を禁止するところまでたどりついたのです。この憲章が50か国の代表によって署名された1945年6月26日、戦争はまだ終わっていませんでした。このことが、武力による威嚇と武力行使の根源である武力の保持を国際法上の違法とはしなかった背景にあるのでしょうか。
 憲章署名後の8月6日・9日には、広島・長崎への原爆投下。日本国民にとって、憲法前文の「惨禍」は、原爆惨禍抜きには語れません。
 そして日本国憲法が公布されたのは、1946年11月3日。「核時代」を見越し、徹底して不戦を誓った日本国憲法が生まれました。国連集団安全保障体制にもっとも忠実な、そして純粋な憲法となりえた世界的・歴史的意義はかなり大きいのではないでしょうか。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   5      
 日本国憲法第9条。「@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」

 前文で、国民の「平和のうちに生存する権利」を保障したのと一体のものとして、政府に対し、戦争をすること、戦力をもつことを断じて禁じた世界的に有名な条文です。

 国連憲章でも、「加盟国は…武力による威嚇又は武力の行使は…慎まなければならない」(第2条第4項)と言っており、その点では9条1項と同じです。違いは、国連憲章が「慎まなければならない」と慎重な表現ですが、わが憲法は「永久にこれを放棄する」と強烈です。どちらにせよ、趣旨は「原則禁止」です。

 日本は、国連憲章の精神と条文に忠実で、国連中心主義や国際貢献を憲法にもっとも体現している誇らしい国です。

 しかも、武力による威嚇や武力行使の根源にある武力そのもの(戦力)を憲法9条2項で禁止した日本では、国連が原則禁止した武力による威嚇も武力行使も絶対にありえません。

 この条文をもつにいたった背景や意味なども考えてみる必要がありそうです。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   4      
 日本国憲法第25条。「@すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 A国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。   
 第一項は、国民の文化的最低限度の生活権を権利として明記した人権宣言です。

 第二項は、一項の権利に対応した国の責務を定めています。

 人間らしい生活を営むことを、万人の権利と宣言した点に特筆すべき意義がある、といわれる条文です。連合国軍総司令部のマッカーサー草案にはなく、衆議院の審議で入れられました。ちなみに、1945年12月、鈴木安蔵らの憲法研究会では「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」という条文を用意していました。
 ここで目を向けておきたいのは、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と言っている憲法前文。「恐怖」とは、専制・暴虐・抑圧・暴力、何よりも戦争の恐怖、「欠乏」とは、餓え・渇き、病い、衰弱、極貧など、要するに貧しさ。平和・福祉国家の実現によってこれらから「免かれ」、その国家の使命は「平和のうちに生存する権利」を保障すること、ということです。

 前文が示していることは、第9条の平和理念と第25条の福祉理念は不可分な関係にある、ということではないでしょうか。改憲派は、平和と福祉の両方を水に流そうとしているだけに、このことを確認しておくことは大事だと思います。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   3      
 日本国憲法第13条。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。   

 書き出しの一文は、日本国憲法の条文でいちばん大切な一か条だ、という人がいるぐらい大事な条文です。なぜかと言えば、「全体としての国民」あるいは「主権者としての国民」が、みんなであることを決めるとしても、一人ひとりの「個人」を尊重する原則を侵してはならない、と言っているからです。

 もちろんこの場合、自分のことしか考えない「利己主義」は論外で、「社会的に生きている個人」が前提です。「個人主義」とは何か、という話になりそうですが、ここらはおおいに議論すればいいと思います。日本国憲法はふところが深いんです。

 その次の一文があることで、13条を「ドラえもんのポケット」という人もいます。つまり、人間として生きるために不可欠な権利であるかぎり、この条文によっていろんな道具が引っ張り出せる、というわけです。

 たとえば、「プライバシーの権利」、「環境権」、「日照権」、「静謐(せいひつ)権」、「眺望権」、「入浜(いりはま)権」、「嫌煙権」、「健康権」、「情報権」、「アクセス権」、「平和的生存権」などです。

 困ったことに、13条を根拠にこうした権利を主張する運動の足を引っ張ってきた人たちが、「新しい権利を憲法に書き込め」と言っていることです。憲法を変えてしまおうとする、別な意図がありありです。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?   2      
 日本国憲法第99条は、こう言っています。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。   

 憲法は「国の最高法規」(98条)ですから、公職にある者が憲法を尊重・擁護する義務を負うのはあたりまえのことです。99条がそのことだけを言っているのであれば、たいした条文ではありません。

 大事なのは、この条文で、「国民」という言葉を意図的にはずしてあることです。つまり、国民は、憲法を尊重・擁護する「義務」を負わないのです。

 そのかわりに、国民は、政府や議会、一人ひとりの公務員に対して、「憲法を擁護し、尊重せよ」と要求する「権利」をもつ、ということです。

 「憲法は、国家を縛るルール」という考え方を自覚的に示しているのがこの条文で、「立憲主義憲法の真髄」と言われています。

 ですから、国民が、国家を「愛情・責任感・気概」をもって支える「責務」があると憲法に書き込むことは、このルールを捨て、憲法を「国民の行為規範」、あるいは「国民支配のための道具」へ変えることです。

 私たちは、99条を、12条の精神で読み返す必要がありそうです。
「日本国憲法」ってなんだったっけ?  1      
 現在の日本国憲法は、アメリカから「押しつけられた」ものだし、施行から60年もたって「古くなった」し、環境権などの「新しい人権を盛り込む」ことも必要だし、この際変えてしまおう、という「雰囲気」が意図的につくられているように思います。   

 一方で、日本国憲法が今ほど世界に輝かせる時代はない、という強力な主張にも共感の輪が広がっています。ノーベル賞作家の大江健三郎さんや、世界的に著名な評論家・加藤周一さんなど九人が呼びかけた「九条の会」は、全国各地に六千を超えています。

 いったい、日本国憲法にはどんな思いが込められ、どんなことが書かれているのか、いまあらためて「知る」ことが大事な時期ではないでしょうか。

 たとえば、「人権」について、憲法はこんなふうに考えています。

 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(97条)であり、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられ」(11条)たものであって、「主権の存する日本国民」(1条)である私たちの「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(12条)。

 国民自身のたゆまぬ努力がなければ、人権は守れない、権力は人権を侵しますよ、と憲法自身が語っています。

 日本国憲法について、これからぜひいっしょに学びたいと思います。
ページトップへ

トップ リンク メール
県議会奮戦記 かけはし 政策・提言 相談 プロフィール あつしのOFF フォーラム
リンクはご自由にどうぞ。各ページに掲載の画像及び記事の無断転載を禁じます。
(c) 2005 Japanese Communist Party, Hasebe Atushi, all rights reserved.